いつも聞こえていた賑やかな声が、ここ数日聞こえない。
汗でじっとりとした肌を煩わしく感じながら、足を進める。夕方と言うにはまだ早く、昼というには少し遅い時間。
一日に少しでも先へ進もうと、探索の半ばの休憩時間。
太陽はまだ熱を持っている。やっぱり暑いのは苦手だなぁ、なんて思いながらポタッと髪の先から落ちた汗の雫を目で追いかけた、その時。

「あっ」

キラキラと柔らかく降る木漏れ日から隠れるように、
木の根元へコロりと転がるそれを見つけた。
毎朝声を響かせて歌っていた、夏の象徴。乾いた身体は既にアリの餌になっていて、殆ど原形をとどめていなかった。両手で掬って、アリの巣の近くへ下ろす。

「知っておるかの？蝉はな、もし人間の身体程の大きさがあったら、その声は世界の端まで届くんじゃと」
「わっ！」

いつの間に居たのか、ジジがわたしの隣でアリに運ばれていく蝉を見ている。驚いたわたしの顔を見て、ホッホと笑う。

「…ずっとじめんのなかにいて、おおきくなったら、燃やすようにイノチをうたうんだもの。イオはこのコのうた、すきだったんだ」

だから、声が聞こえなくなった時何だか胸にちいさな穴が空いたような感覚になった。自分の命と生まれた使命を謳歌するような歌声を、いつもいつも聞いていた。
横でジジが「そうか…」と呟く。顔を除けば、何だか懐かしむような、悲しむような嬉しいような、何ともいえない難しい表情を浮かべていた。また呟く。「そうか…お前さんは声の違いが分かるんじゃな…」

知ってる。わたしの力じゃないことくらい。きっとこれはわたしが身体を奪ったイシスの力なんだ。
崩れて行くセミの身体を見ながら、「うん」と短く返事を返した。

ぼんやりと、数日前の記憶を遡る。
わたしの身体で生きていたイシスという子はどんな子だったのだろう。誰にも聞けなかったから、わたしは初めて目を覚ましたあの夜の日の家へと一人で向かったのだった。

*

扉を開ければ音がするんじゃないかってくらい、埃が大きく舞った。
誰も使っていないのは明白で、部屋中が真っ白だった。
そういえばマザーが言っていた。

「誰も使わない家はね、少しずつ少しずつその人が居た形跡を消してしまうんだ」

埃の匂いしかしない家。
換気のされていない家は湿気を含んで冷たかった。
フカフカした厚みのある絨毯。飾られた夫婦の絵。並べられた食器。
本来ならば温度を感じそうなそれら全てがシンと静まり返った中に静かに収まっている。ただただ、冷たく。
人恋しさが押し寄せてくる気がして、慌てて頭を降った。視界に入った手記を一冊乱雑に捲る。

--イシスの種族について--

目に飛び込んだ文字は、まさにわたしが求めていたそのものだ。
文字に顔を近づけて、一文字も逃がさないように追いかける。
けれど、すぐにため息が出る事になる。次のページから、書かれた手記の殆どが、破れて読めなくなってしまっていたのだ。

*

「……なぁ。イシスはどんなエンブリオだったの」

ジジが静かに息を着く。

「なんじゃ。あの家で見てきたんじゃなかったのか？」
「むずかしくて、よめなかった。
それよりイオが家にいったこと、しってたの？」
「あれだけ埃だらけになって帰ってきて気付かん奴がおるかい」

ホホホとジジが笑う。「イオも隠し事が下手じゃな」

髭を撫でながら、あの子はなぁ。と目を細める。

四季を連れてくる妖精の一族の話を、ジジが愛おしそうに話す。
地に熱を流し、山を冬の眠りから冷覚ます春の一族。命の水を振り撒き、淀んだ風を吹き飛ばし生物を活気付かせる夏の一族。土や殻の中で眠る植物を揺らし起こし実らせる秋の一族。冷たく力強い雪の下で命を眠らせ巡らせる冬の一族。
自分の掌を何となしに眺めた。聞かずとも分かるくらいに分かりやすいものだ。光の戦士と会ったあの日に使った火の力。春の妖精のそのものではないか。

「あの力はな、山が死に、毒を溜め込みはじめた時に使っておった。山を焼き、灰で覆う。やがて栄養となる灰の下から新たな命が顔を出す。炎から動物達を逃がすために動物の言葉を聞き話すのは春の一族の仕事だったわけだのう」

けれど、やがて四季の一族は少しずつ少しずつ数を減らし図鑑にのみ残る存在になってしまった。何かの病が流行ったのか、争いが起こったのか。誰も理由を知ることなく、ひっそりと姿を消したのだという。
たった一人の赤ん坊を森に残して。それが、イシスなのだ。

「その赤ん坊を拾い育てたのが、儂らの主だったキノスラとリラエ。家で夫婦の絵を見たのではなかったかな？」

初めて目を覚ました日に見た、夫婦の絵。そうか、怒りっぽいベルカの表情を緩めさせるのはあの2人だったのだ。とても楽しそうに大事そうに話していた事を思い出す。
それと同時に、あの冷え切った家を思い出して、鼻の奥がツンとした。
ベルカをあんな風に優しくさせる2人はもう居ないんだ。帰ってくる人達を温かく迎えるスープのお皿も二度と使われる事はなく、ちいさな小窓が開けられて小瓶に生けられた花が風に揺られる事もない。
いつの日か朽ちて、緑に覆われて何にもなくなってしまう事をただ待っている。

「ネクター狩りが始まり、キノスラは一揆の為にベルカと共に家を出た。すぐに戻るなんて言いながらの。戻ると約束した日にイシスと儂が森へと迎えに行って見た光景は、惨劇でしかなかった」

イシスがキノスラの姿を見つけて、名前を呼ぼうとした瞬間に、キノスラはぐらりと身体が揺れて地面に吸いつけられるように倒れた。
何かがおかしい、そう思って駆けつけようとした所をジジに止められ、慌てて木の陰に隠れる。怒り狂ったベルカが今にもキノスラへ飛びかかろうとしていた。ベルカの横に立つのは、王城に使える兵士の鎧を纏った男。
手にはネクターが一輪。
途端に全てを理解した。
兵士がキノスラのネクターを奪い、ベルカを無理やり服従させたのだ。
事故で足を失ってからキノスラの足となっていたベルカが居なくなれば、必然的にキノスラは倒れてしまう。
追い打ちをかけるかのように響く銃声。
呻く声を楽しむかのように兵士は言ったのだ。

「殺せ、ベルカ」



「ダメだよ！！！！」
思わず叫んだ声が森に響き渡る。
そうじゃな、とジジが頷く。
「イシスも同じように叫んで飛び出してな。小さな身体を張ってキノスラを守ろうとしよった」

当然、少女と虎だ。叶うわけもなく、少女は地面へと叩きつけられてしまう。しかし、突然現れた少女の姿に驚いた兵士の手から、ジジがネクターを奪い返す隙をイシスは作りあげていた。主であるキノスラを殺したのはベルカじゃない、兵士の銃声だ。その事実を作る為に。
しかし、ベルカは耐え切れずにその場を走り去ってしまう。当然だろう、キノスラとイシスを殺したのは自分だと考えたのだから。

「リラエはショックに耐えられず、ノヴァの静止を振り切って海へと身を投げよった。それ以来じゃよ。帰る家のない儂等は心の拠り所のない迷子の子供のようじゃった」

「そんなの、あんまりだよ…！！」

自分の中でバラバラになったピースが埋まっていくのが辛かった。

自分の命が尽きようとしているその瞬間まで、誰かベルカを助けてと泣く少女。家族を壊したとベルカを責めるノヴァ。キノスラとイシスを目の前で失ったジジ。家族がバラバラに散り、温度を失った家。

そうか、マザーはそこでイシスを見つけたのだ。
「俺はお前に助けられた」とベルカは言っていた。
どんな形であれ、イシスが再びベルカの前に姿を表せば、それはイシスの確かな意思となる。だってわたしはベルカなんかに殺されてなんかいないんだから。だから心に重荷を抱える必要なんかないのだ。

「お前は奪ってなんかおらんよ。
イシスが頼んだんじゃ。わたしの身体を使ってとな」

マザーはわたしを作る器を探していた。だからイシスを使ったに過ぎないのだとジジは言う。

「居場所を失くした儂等が、また集まって喧嘩が出来ているのはマザーの心配りがあったからだのぅ…」

本来マザーがわたしの記憶を預けるエンブリオは、波長が合致し器となれるエンブリオであれば誰でもよかったのだという。それでもわざわざノヴァ達を探し出し、わたしの記憶を預けさせた。そうすれば、わたしは皆を探し出し、必然的に散らばった皆がわたしという一つの目印に集まる。


「イオは誰も傷つけていなかった…？」
「当たり前じゃろうが。感謝しかしておらんよ。ノヴァもな。むしろ謝らねばならんのは儂等の方じゃ」

アリの行列が歩いていく。巣へと、蝉だったものへと。
その小さなカサカサという音が耳に響く。

「やっぱりどうしても、イシスとイオを重ねてしまっておったからな」

最初は混同した。わたしは記憶を亡くしただけで、イシスだったのかもしれない。そうであればいいとも思った。ノヴァはとても楽しそうにわたしに向かって笑うから。
『イオのお風呂歌』なんてものを作って、わたしが嫌いなお風呂をワクワクさせるものに変える。たとえそれがイシスの為に作った歌でも、今はわたしに歌ってくれている。
でも、違う。わたしはイシスという器に入ったに過ぎないのだから、当然イシスの記憶はない。わたしはどう頑張ったところで、この家族の一員にはなれないんだ。

「特にノヴァはな…イシスを妹のように可愛がっておったし、性格上踏ん切りが付かんのじゃろ」

お前はイシスの代わりにはなれんよ、とジジは言う。
誰かの代わりになれる者などどこにもいない、居てはならないのだと。
その人が消えて空いた穴は、別の者には埋めらるわけがない。ひとのカタチというのはそれぞれに違うのだから。
だからそれぞれの方法で、穴を覆っていかなければいけない。
この老人は出会った時から難しい事をさも簡単そうに言うのだから、わたしは参るなぁとぼやいてしまう。

「まぁ、唯一の救いはお前とイシスの性格がとてつもなく似つかんかった事じゃな。あいつはもっと可愛らしいかったからの」
「なんだよ、それ」

最後に残った蝉の羽を、アリ達が小さな身体で担ぎ上げた。
わたしは何だか、少し心が軽くなった気がして、笑ってしまった。

「お前さんは自分のやらねばならん事をすればいい。感情を集め、あの蝉の様に命を歌え。それがお前さんの使命なんじゃろ？」

探索の休憩が終わったのか、わたしを呼びに来る声が聞こえた。
その隣で「遅いんだよ」と、ベルカが唸り声を上げ、「短気なんですよあなたは」とノヴァが顔を顰める。

わたしの頭に登ったジジが、ホッホと楽しそうに身体を揺らした。


夏が終わる。
命の話。

右に、左に、槍を旋回させ正面でぴたりと構え……ようとして。

……勢い余って、槍の平たい面を自分の顔面にぶつけた。

右に、左に、槍を旋回させ正面でぴたりと構え。