突如、空から舞い降りてきた熊の人形。
子供くらいの大きさのそれはブルブルと震え、立ち上がろうとする。
咄嗟にベンチから立ち上がり、状況把握。
昼間に比べれば人の数もまばらだが、それでも数人の大人や子供が突然現れた人形に目を奪われている。

私は瞬時にアレは敵だと判断した。

しかし、誰に向けられたものだろう。
いや、答えは分かりきっている。

頭に木霊す明瞭な意思を持った言葉。


——それは少し寂しいなぁ。


明らかに私達に向けられたものだ。

だとしたら標的はこちら。
関係のない人たちが巻き込まれる恐れもある。

「にいさ——」

同じく立ち上がって熊を注視している兄さんに声を掛けようとして言葉に詰まった。

先ほどまで不気味に震えていた熊の人形が不気味なほどあっさり立ち上がった。
その佇まいに不安定さはない。しっかりと両足で地に立ち、周囲を見渡す。

そして、急に熊は踊りだした。

「……はあ？」

アーネが声を上げる。無理もない。私だって言葉を失ってるだけで同じ感情だ。

熊は短い足でステップを踏み、短い手をどうにか合わせ踊る。
無音で行われているそれは何とも不気味だ。
ここに音楽でも流れていたならもっと違う印象を受けたかもしれない。

周囲も困惑していた。突然現れた熊が妙な踊りを続けているのだ。小さくジャンプし、片足で器用に回りポンポンと手を合わせる。

何が何だか解からなくなる。
アレは一体、何なんだろう。

熊がまた片足で回ろうとしてバランスを崩した。
地面に思いきりぶつかり、ぷるぷると震えている。

周囲に張り詰めていた緊張が少し和らいだ。
心配する声も上がりだす。
熊は痛そうにまだ地面に転がったままだ。

私はふと、一つの可能性に思い至る。

もしかして、あの熊は——。

脳裏に浮かぶ魔女の顔。
彼女本人の大きさではないが、魔女は自在に子供にもなれる——らしい。
私も目の当たりにした事があるし、熊の大きさから彼女だとしても違和感はそんなにない。
そして、彼女ならこんなわけのわからない事をしてても違和感がない。

何とか立ち上がろうとする熊だったがうまく立てないようでもがいている。
それは喜劇を見ているようだ。

やがて一人の女の子と母親が熊に近づいていく。

「くまさん、だいじょうぶ？」

女の子が人形へ声を掛ける。
熊は小首を傾げ、少女を見つめた。

「立てないの？」

その言葉に熊は三度、首を縦に振った。

「じゃあ、はい！」

母親が嗜めるが、少女は熊に手を差し出す。

それをただ見守ることしかできない。

短い手を伸ばし、少女の手をとった熊は少女に引っ張られ、危なげに立ち上がる。
その体には葉や土が付いていた。

「もうだいじょうぶ？」

そう尋ねる少女に熊はまた首を縦に振る。
その様子を見て少女は笑みを浮かべた。

「そっかー。じゃあもういいね？」

そう言いながら少女が黄色いポーチに手を入れ、何かを取り出した。


小さな手に光る果物ナイフ。


理解が出来ない。
何が起きているのか。
何とか状況を飲み込もうとした瞬間——。

「さあ、もっとあそぼう？」


少女は何の躊躇いもなく熊の腹部にナイフを付きたてた。


母親から絶叫がほどばしる。
周囲が先ほどとは違う緊張感に支配される。
悲鳴や動揺が上がる中、ぶちぶちと繊維を裂く音が何故か明瞭に耳に届く。
ガタガタと震える熊の腹部から真っ赤な血は流れない。何も出てこない。
ただ、笑みを貼り付けた少女のナイフで縦に切られて続けている。

「もういいかな？」

そう言って少女はナイフを引き抜いた。
人形の腹部には大きな虚空が出来上がっている。
綿のようなものも見えない。ぽっかり空いた黒。

そこから突如、人の手が飛び出した。
白すぎるその腕は何かを掴もうと虚空をさまよう。

「はいはい、あくしゅー」

少女はその手を握ると上下にぶんぶんと振る。

次々と起こる状況に脳は理解する事を放棄しようとし始めいている。
これはなに？何がどうなっているの？

体は動かない。動く、ということより目の前の異常な光景を理解する事を優先してしまっている。
背筋に冷たいものが走る。本能が警鐘を鳴らしている。

これ以上はいけない、と。

熊が突然激しく頭を振り出した。ぶるぶると震える前後左右へとでたらめに動く。
少女はそれを見て、何かを納得したように熊ではなく、白い手に視線を向けた。

「おなかすいたの？くいしんぼうだもんね。でもごめんね、あなたの好きなキャンディーはいまないの」


ォォォォオオオオオオオン。


腹部の穴からまるで鳴き声のような音が上がる。悲しそうな、駄々をこねるようなその音に、少女は困ったように首を傾げる。

「ないの。ないったらない。ないないないないないの。キャンディーは今度あげるからね。今はそうだなー」

そう言って少女は薄気味の悪い光をともした視線を——。

「じゃああなたの大好物があるから、とくべつにあげるね。とくべつだからね。よかったね」

きひっ、と笑い声を漏らし恐怖に息を呑み、我が子である少女を見る母親に向けた。