言葉にすれば正に“きょとん”といった風に、ブラックは目を丸くして二、三度瞬いた。
こいつは唐突に何を言い出すんだろう…呆れたようにそう考えて、
しかしこちらを見るジャックの顔がいつになく真剣であることに気付き、軽口を言いかけた口を閉ざす。

自分自身のこと。
それはおそらく以前揉めた時の話を指すのだろう。
“ルードルフ・ビアス＝ウル＝シルヴス”として母への復讐に生きることを諦め、
“ブラックビアス＝ディドスペード”というジャックの相棒としてこれからを生きていく。
本当にそれに同意するのか、それでいいのか、ということをジャックは確認したいのだ。

ブラックとしては今現在こうして共にいることで、答えを示しているつもりだった。
だが、ジャックはそれでは納得していない。——多分、まだ不安に思っているのだ。

「お前ってさ……意外と女々しいな？」
「あぁ！？どういうことだてめぇ！！」

思わず真顔でそう言えばキレられた。
が、同時に妙な申し訳なさも込み上げてくる。
普段あんなにも豪胆であっけらかんとしているジャックを、こうまでさせているのは自分だ。
それくらい自分の裏切りは、ジャックにとって衝撃的な物だったのだろう。

ブラックは素直に頭を下げた。

「悪かった。俺はもうお前と離れるつもりはないよ。“ベルタ”の…母の事ももう別にいい。
今までの恨みを全部忘れたかって言えば嘘になるけど、この先どうこうしようって気は無い。
俺はもう“ブラックビアス”だ。お前の相棒の、ただのギャンブラーだよ。お前がそうしろって言うならな」



……。
…………。
………………。



…いや、何なんだろう。この、何ていうか、浮気した男が復縁を求めて土下座しているような、
とんでもなく情けなくて恥ずかしいシチュエーションは。
身から出た錆だと言ってしまえばそれまでなのだが、
それにしたってこんなセリフをわざわざ口にする居た堪れなさは流石にちょっとクる物がある。

「…あのな、何とか言えよ。こんな恥ずかしい事言わせといて無言はないだろ、ジャック。
……ジャック？」



＊　＊　＊　＊　＊



ふん、と鼻から息を吐き出しながら、ジャックは頭を下げる相棒を眺めた。
そうしてもう一度、ブラックが言った言葉を噛み砕きながら頭の中で繰り返す。


「お前と離れるつもりはない」
「母親のこともどうでもいい」
「俺はもうブラックで、お前の相棒でギャンブラーだ」
「お前がそうしろって言うならな」


頭の中で繰り返した言葉にも引っかかり、ジャックは小さく舌打ちをした。
気に障るのは最後の言葉。

(「お前がそうしろって言うなら」？──ふざけんな)

ジャックはこの言葉の前にブラックに聞いた。
「お前はこれからどうするつもりなのか」と。
恐らくブラックも真剣に応えたのだろう。
でなければこの男は軽々しく頭を下げたりなんかしない。
だとしても、ジャックはやはり気に入らない。
恥ずかしい事を言わせておいてだんまりか、と投げかけてくるブラックに向かって仏頂面を引っさげたまま、沈黙を続ける。

「……ジャック？お前、ちゃんと聞いてたか？」

呆れたように声をかけてくるブラックに、また舌打ちをした。

「きーてた」
「じゃあ何か言えよ。居た堪れないだろ、俺が」
「知らねぇよ。てめぇが勝手に頭下げたんだろうが」
「いや、そこじゃなくてさ……」


「俺がそうしろって言わなきゃ、お前は消えんのか」


沈黙。
怒りにも似た表情でジャックの真紅の瞳がブラックを突き刺す。
睨みつけるように、逸らしもせずにじっと見つめる。
やがてやれやれというようにブラックは目を伏せ、肩を竦めた。

「あのさぁ…さっき言ったろ？お前と離れるつもりはないって。
紛れもない俺の意思だし、俺が決めた事だ。馬鹿な事言うなよ」
「じゃあ最初っからそう言え。俺に流されたみてぇに言うな」
「……お前そんなめんどくさかったっけ…？」
「あぁ！？ンでそーなんだよ！」
「なんでってお前」

言いかけてブラックは止まる。
その視線の先には──今まで見たことがないようなジャックの顔。
キッと睨みつける瞳は不安が色濃く、怒りとは違う眉の寄り方。
口元は引き締めているつもりだろうが、ヘの字を描いていて……


それはまるで、捨てられる事に怯えている子供のような──


恐らく本人は気が付いていないだろう。己がそんな表情を浮かべているなど。
ブラックは小さく苦笑を浮かべて「まぁまぁ」とジャックを宥めた。

「……一先ず、この話はここまでにしよう。
けど忘れんなよ。俺はもう何処にも行かない。これは忘れんな」
「……、チッ。わーったよ」

憮然と、あからさまに不満げに口を尖らせたジャックは、机に肘をついてあさっての方向を見ながら渋々了承の言葉を吐いた。
その様子を見てまたもブラックは肩を竦める。まるで拗ねた子供だ。
今まであまり見たことがないジャックの表情にほくそ笑みながら、そうさせてしまっているのは己の所業である事を、ブラックは改めて思い知った。

先程のやり取りも、悶着がなければジャックは単に笑い飛ばしていた事だろう。
「俺がいなきゃ何にも決められねぇのか、てめぇはよ！」などといった具合に。
ブラックは反芻する。ジャックの言った言葉を頭の中で。

(「俺に流されたみたいに」……か。別に、そんなつもりじゃなかった)

そっぽを向き続ける相棒を眺めてブラックは小さく嘆息する。
そんな様子を横目で見ていたジャックは、ふんっと大きく鼻で息を吐いた。
依然、視線は合わせない。

(不安にさせた原因も、不安にしてる要因も、全部俺…なんだよなぁ)
(なぁ、ジャック。俺は伝えたつもりだったけど、お前にはまだ足りないのか？)

内心やれやれと思いながら、ブラックはゆっくりと立ち上がった。
その気配にジャックはちらりとブラックを見やるが……またすぐに視線を外した。
あまつさえ「しっし」と手振りまでつけて、ここから出て行けと言わんばかり。

「出てくンならコーヒー。喉渇いた」

不味かったら承知しねぇぞ、と添えてジャックはじろりとブラックを睨んだ。
その様子にブラックはハイハイと両手を上げて降伏のポーズを見せ、足を踏み出す。

──一歩、二歩。扉が近づく。
ドアノブに手をかけ、扉を開いて……立ち止まる。


「あぁ、そうだ」


半分扉を開けたまま、ブラックは振り返る。
ジャックは訝しげにブラックを見ていたが……そのうち視線を外した。
まだ拗ねているらしく、ご丁寧に唇を尖らせている。
それに小さくくすりと笑い、ブラックは尚も言葉を紡ぐ。

「お前が俺を駄犬だとか、お前が飼い主だとか、そんな事言うのは諦めてるんだけどさ。
お前は俺がさ、お前…ジャックがいないと何も出来ないって思ってるんだろうけど。
……それは、お前も同じだろ？」

ジャックの真紅の瞳が見開かれ、その視線はゆっくりとブラックを捉える。
その表情はまさに「お前は一体何を言っているんだ」と言わんばかりのものだ。
尚もブラックは言葉を続ける。その口元は笑みを浮かべたまま。

「俺がいないとダメなのはお前だって同じだろ、ジャック。
馬鹿で、後先考えないまま行動して、騒ぎばっか起こして。
……そのくせ中身は空っぽだ。そうだろ、ジャック」

ガタッと椅子を蹴倒しながら、ジャックが立ち上がる。
拳は固く握り込められ、僅かながらに震えてもいるようだった。
けれどそこからは動かない。じっとブラックの次の言葉を待っている。
ブラックは一度、きちんと体を向き直らせ、正面からジャックを見据える。
熱を帯びた真紅の瞳が突き刺さりながらも、やはりブラックは笑んでいる。




「いいか、これだけは忘れるな。
そんな中身が空っぽのお前を満たしてやれるのは俺だけだ。
お前の無駄にバカでかい虚を埋めてやれるのは俺だけなんだよ。他の誰でもない。
……そこは絶対、忘れるんじゃないぞ。バカジャック」




「じゃーな」と手を軽くひらりと振りながら、ブラックは部屋を出て行った。
パタリ、と軽い音を立てて扉が閉まっていくのを、ジャックはただ見ていた。
しんと静まった部屋に取り残され、仕方なく蹴倒した椅子を元に戻して……ジャックは深く溜息をついた。
そうしてどっかりと背もたれに体重を預けるように座り、天井を仰ぎ見る。
──不意に、何かがこみ上げてくるような感覚を覚えて咄嗟に顔を片手で覆った。


「…………何言ってんだ、バーカ」


静かになった部屋で一人、小さく呟く。
──誰にも見られていなくて良かった。
そんな今まで一度も思った事がない事を思いながら、ジャックは暫くそのまま動かなかった。
口元は小さく笑いながら、暫くの間は、ずっと。