ふわり…　と鼻腔を擽る嗅ぎ慣れた香りに、意識が微睡みの淵から引き戻された。
ゆっくりと目を開ければ、ここ暫らくですっかり馴染みのあるものになった天井。その中空をゆるやかに紫煙が流れている。
未だぼんやりとする思考の中で 目線だけを動かしてその煙の元を辿れば、
壁に凭れかかって煙草をふかすジャックの姿が視界に入った。


「よう。お目覚めかよクソ野郎」


くっと喉の奥を鳴らして笑う、嘲りの色を含んだ顔。
その様子に、意識を手放す直前の記憶が蘇る。


「…まあね。誰かさんが思い切りぶん殴ってくれたおかげでよく眠れたよ」


身体の節々、とりわけ胸の辺りが強く痛むのを堪えて笑顔を作り、身体を起こす。
痛みに浅くなる呼吸を悟られないよう視線を逸らせば、
ジャックの脇に置かれている灰皿が吸殻でいっぱいになっているのに気付いた。
その様子からかなりの時間が経過したことが伺えるが、気を失ってから一体どれだけ経ったのだろう。

そんなことを考えていると、それをまるで見透かすように ハン、と鼻で笑われた。
本当、こいつは人の感情を逆撫ですることにかけては天下一品だ。


「へーえ？ そりゃ良かったなァ。最近夜更かしばっかでヘロッヘロだったみてえだしよぉ？ いい休息になっただろ」


ニヤニヤと笑いながら近付いて来たジャックは ギシリと音を立てて寝台の縁に腰掛けると、
顔を近付け 口に含んでいた煙草の煙を俺の鼻先でふうっと吐き出した。
その煙たさに思わず咳き込むと、折れているだろう肋に激痛が走る。


「……ッ！？ ゲホッ、ゲホ…！！ …——っ、この、性悪…」
「ハァ？てめえにだけは言われたくねぇなぁ、狐野郎。 よくもまあ、あんだけコソコソしやがって。
　——やっと尻尾を見せやがって。洗いざらい吐いてもらうぜ、ブラック」


赤い双眸が眇められる。 口調こそ落ち着いているが、その目には明らかな苛立ちが滲んで見えた。

…もう、逃げ場はない。観念するしかないようだ。
長い溜息を吐いて、俺はジャックの顔を見返した。


「そう凄むなよ。話すから…。あと一つ言っておくと、『僕』の名前はブラックじゃない」
「ぁ？」
「ルードルフ・ビアス＝ウル＝シルヴス。それが僕の本当の名前だ」


長い間隠し通していた本名を告げれば、ジャックはふんと鼻を鳴らした。


「ハ、イイトコのボンボンらしい大層な名前じゃねぇか。 …で？ そのルードルフのボクちゃんは一体何してたわけ」
「例の『ネクター』についての情報を集めてたんだよ」
「それを隠れて一人でやってた理由は？ 何で俺に言わなかった」
「…理由を言ったらお前は絶対怒ると思ったから」
「へえ？」


顎をしゃくって先を促される。が、説明するにも何処から話したものか。
考えを巡らせていると、ジャックが何かを思い出したかのような顔をした。


「それ、もしかして『ベルタ』が関係してんのか？」


ベルタ。
その名前の響きに、過去の光景が再び脳裏を過ぎる。

雨、雨、
黒い水槽。
床に広がるブルネットの髪、
フレームの中の笑顔……

俺は懐から擦り切れた一枚の紙片を取り出してジャックに見せた。
あの日…義母をこの手で殺めた日、握り締めて走った実の母の影像だ。
くしゃくしゃになって所々は破れ、色は褪せ、そこに映る姿を正確に見て取ることは最早難しい。
それでもその顔が自分に瓜二つであることや、微笑みの柔らかさなどは未だ十分に確認出来た。


「…ベルタ＝レウ＝ブラオ。
僕の実母だ。 お前に出会うずっと前から探してる。
僕はこの女を見つけるために旅をしてきたんだ…ギャンブルはただの路銀を稼ぐ手段だった」
「へぇ。お坊ちゃんの母を訪ねて三千里ーってか。 お母ちゃんに会いたいヨーって？
てめえにしちゃ随分とおセンチじゃねえか。え？ ルディさんよ」


「違う。 僕がこいつを探してるのは ——この女を殺すためだ 」


呟くようにそう言えばジャックの眉に皺が寄る。 俺は肩を竦めて見せた。


「別に、大した話じゃない。金に目が眩んで子を売った女に復讐してやろうっていう、ただそれだけの事さ。…笑えよ」


自嘲気味にそう言って、けれど対するジャックは何も言わない。 ただ、黙って聞いている。
その沈黙が息苦しくて、口は勝手にぺらぺらと動く。


「笑えって言ってるだろ。自分でも馬鹿な事だって解ってるんだ、笑い飛ばされなきゃやってられないよ。
…でも、そのためだけに生きてきた。他にどうすればいいのか、分からないんだ。

望まない暮らしも、無理矢理詰め込まれた医学も、義母をこの手にかけたことも。
他のことだって、全部全部。こいつに復讐するためだったんだって、考えないと。
そうでなくちゃ、そうでなくちゃ、何のために生まれたのか解らない。
僕は自分を肯定しなきゃいけないんだ。そうでないと……」


——訳の分からないことを言っている。頭の片隅でそう思う自分がいる。
じわりと背中に冷たい汗が滲んで、口元が引き攣る。声が震える……情けない。
たまらず視線を落とすと、固く握り締めた拳が白くなっているのが見えた…


「…なのに、お前が現れたから。お前と一緒に居る時間が、あんまりにも……
『ブラック』として毎日を送るのが 当たり前みたいに、なっ　て、…　目的を、忘れそうになってた。
……それじゃ駄目なのに。」


唇を噛み締める。
そう……こいつと、ジャックと過ごす時間が　あまりにも心地良かったから。
時折、錯覚した。 本当の俺は『ブラック』で、『ルードルフ』なんて人間は居なかったんじゃないかって。
過去の全てが夢だったなら、なんて。 馬鹿げたことを思ったりもした。

救いようがないくらい、愚かだ。
相棒だなんて言いながら俺はジャックの事も騙し続けて、ただ自分が楽になりたい、そのためだけに嘘を重ねた。


「でも、この間…　街で母によく似た女に会って、我に返ったよ。自分が本来成すべきことを、はっきりと思い出した。
僕は、ルードルフ・ビアスとして生きなきゃいけない。 だから、お前とは袂を分かたなくちゃならないんだ。

……だけど、そんなこと突然言っても　お前は納得しないだろ？
だから、今追いかけてる『ネクター』事件にケリをつけたら、そのタイミングで別れを告げようと思ってた。
それならまだ、説得出来るんじゃないかって考えたからだ。——だから、手がかりを掴もうと毎日必至になってた」


ジャックの顔を見ることが出来ない。
それがあまりにも自分勝手で、酷い我儘だという自覚はあった。あったのに、それからすらも逃げた。
半ば自棄になっていたのかもしれない、と　今になってぼんやり考える。

俺は小さく息を吸った。


「…さよならだ、ジャック。勝手ばかり言って、ごめん。 最後まで我儘に付き合わせたな。
何なら気の済むまで殴ってくれても良い……ほら」


目を閉じる。





…が、予想していた衝撃は何時までもやって来なくて。
薄く目を開いたとき、ジャックの大声が部屋の中に響いた。


「お前さあ……ほんっっっっと、バッカじゃねーの！！」





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ジャック（ENo.1597）の日記に続きます
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