ジャックの視線を避けるように家を出た後、俺は人の寄り付かない裏路地に足を運んだ。
北風が吹き抜ける以外に音もない通りは、どことなく埃っぽくて薄汚い。
そしてやがて見えて来る小さな酒場の重い扉を押し開けば、店内の客の目が一斉にこちらを向いた。
探るような目、或いはあからさまな好奇を滲ませる目。嘲りの色も含まれているだろうか。
とかく彼らは往々にして人相が悪く、その場がならず者の集まりであることは一目瞭然だ。
注がれる視線に若干の煩わしさを感じつつ、それらを無視して真っ直ぐカウンターに向かうと、
その隅で一人盃を傾ける黒衣の男に声をかけた。

「やあ。この前頼んだ仕事はもう上がってるかな」

にこりと笑いかけてみれば男はこちらを一瞥の後、無言で数枚の紙を取り出す。
その愛想の無さに苦笑いを浮かべて、俺は折り畳まれたそれをそっと開いた……。


この酒場は、いわゆる手配師の仕事場だ。
手配師とは人材斡旋者のことで、彼らはこちらが金さえ積めば合法非合法を問わず仕事を請け負い、
自らの手は汚すことなく、適切な人材を使って依頼を遂行する。
黒か白かと聞かれれば限りなく黒寄りの立場であるが、依頼者と労働者の双方に利得を齎す立ち位置にあるため
その存在はいわば暗黙の了解となっており、このような場に来れば割合簡単に彼らとの接触を持つ事が出来るのだ。
そんな訳で数日前にコンタクトを取り、依頼したのは勿論件の『ネクター事件』の調査。
入手したリストに記載のある人物一人一人を虱潰しに洗うのはあまりにも現実的でないため、
予め候補を絞った後、それらの対象についての情報収集を依頼したのだった。

が、手元に戻ってきたのは思いつく限りでも指折りの『歓迎できない』内容だった。
ネクターの独占を目論み、それによって莫大な利益を得ようとしている人物。
それはどうやら、予想していたよりも遥かに——

（もしこれが本当なら、もう俺達二人でどうこうできるスケールの話じゃない）
（ここで手を引くべきか？ ああ、でもそんなことを言えばきっとジャックは怒るだろうな…）
（どうする？ どうすればあいつを納得させて、それで、俺は自分の……）

…眉根を寄せて考え込んでいると、ちらちらと男が視線を送って来るのに気付いた。
事前に支払った依頼料とは別に、成功報酬を要求しているのだろう。
ああ、と納得して予め用意していた布袋を取り出す。
決して小さくはない袋の中でじゃらりと金貨が音を立てると、
男はひったくるようにそれを手に取ったが、中を覗くと僅かに怪訝な顔をした。

「額が、多くないか」
「ああ。今回頼んだ内容とは別に、もうひとつ依頼したい案件があるんだ。
　もし手が空いているのならそれを収めて、追加で頼まれてくれると助かるんだけど…」

そう言って自分の懐に手を入れ、一枚の影像を取り出した。
擦り切れ、色褪せたフレームの中では、豊かな黒藍の髪の女が薄青の瞳を細めている。

「——人を探してる。この写真の女だ。年齢はおそらく、今は50近いと思う」
「人探しか」
「何分手がかりが少なくて、あんたに与えられる情報はごく限られるけど…そのぶん報酬は弾む。
　万一この女の居所を割り出すことが出来たなら、そのときは相場の5倍の額を払うと約束しよう」

男の目の色が変わる。……食いついた。
思わず緩みそうになる口を引き締め、俺は相手を誘うように、更に数枚のコインをカウンターに積み上げる。

「成果次第では更に上乗せも考慮する。とにかく、どんな些細なことでもいいから情報が欲しいんだ。
　何か判ったことがあれば、その都度連絡が欲しい」
「この裏に書いてあるのは名前か？」
　
「そう、この女の名前—— “ベルタ” だ。 ベルタ・レウ……」


一字一句はっきりと、その名を口にする。
ああ、音のひとつひとつがひどく疎ましく、厭わしい！


…が、最後まで言い終える前に、その言葉は突然現れた第三者によって遮られてしまった。

「あらぁ、男二人で難しいお話？ 怖い顔……せっかくの美男が台無しよォ、お兄さん」

横から伸びてきた白い手に するり、と頬を撫でられて、そのままくいと顔を上向かせられる。
きつい香水の匂いが鼻腔を擽り、俺は僅かに顔を歪めた。

——娼婦だ。
連中はいつだってどこからともなくやって来ては酒に酔った客の気を引き、金をせしめる。まるで鬣犬だ。
ニィと吊り上がる唇には濃い紅が引かれていて、それがまた何とも品が無い。
女はやり取りの一部始終を見ていたのだろうか、手配師が持っている布袋に目をやってにんまりと笑った。

「お兄さん、随分と羽振りがイイのねえ。どんな仕事をしているの？」
「答える義務はないね」
「あら、つれない」

けらけらと下品な笑い声を上げ、しなを作ってこちらに寄りかかってくる。
さりげ無く離れようと試みるものの、ギュッと腕を取られてしまい叶わない。
艶めいた唇の隙間から、赤い舌がまるで蛇のようにちろりと覗いた。

……気持ち悪い。

（気持ち悪い？いいや、）



（ 　こ　　わ　　い　 ）



こちらを見る、情欲に濡れた目。
熱の篭った吐息。触れ合う箇所から伝わる体温。生暖かい。

これに似たモノを 『僕』 は知っている。

怯えて竦む体の上で、肉を貪る獣のようにその肢体を揺らす女。
泣き叫んで許しを乞うてもそれは受け入れられるどころか、
陵虐を愉しむ笑い声によって掻き消されるばかり。
髪を振り乱し爪を立てる様は、まさしく獲物を嬲り殺す鬼の姿そのもので……




（　　た　　す　　け　　て　 ）

（　ねえ、　どうして　　どうして　）


（　どうして　『ぼく』 を むかえにきてくれないの　）





（　　　　おかあさん　　　　）







「…ッ、離せよ、この淫売婦！」
「きゃあっ！」

……気付けば『俺』は、女を思い切り突き飛ばしていた。
椅子の倒れる大きな音。床に倒れこんだ体の上に、更に卓から滑り落ちたグラスなどが降り注ぐ。
その騒ぎに何事かと周囲の人間がわらわらと寄って来るが、それらを全てを押し退けると、
俺はその場から逃げ出すように店の外へと飛び出した。

（くそ……最悪だ！）
（あれからもう、何年も経ったのに…）

夜風の中に香水のきつい花の香りがまだ残っている気がする。
それが自分の周りに纏わりつくような錯覚を覚えた瞬間、ぞっと背中が寒気立ち、
胃の底からは強烈な不快感が込み上げてきた。

「……うっ、ゲホっ、ぅえ゛ッ…！」
　
身体を「く」の字に折り曲げて咄嗟に口を抑えようとするが、それは間に合わず、
俺は喉の蠢動と共に、吐瀉物を何度も地面の上に撒き散らした。
近頃ろくに物を食べなかったせいで胃液ばかりのそれは、喉奥に焼け付くような痛みを伴う。
やがてぐらぐらと視界が揺れて平衡を保つのが困難になると、堪えきれずにそのまま地に膝をついた。




（ああ…やっぱり間違いだったんだ）
（『僕』は、寄り道なんてしたらいけなかった）


——終わりにしよう。賭博師コンビのブラックジャックなんてものは、今日限り。
そうして 『僕』 は 『ルードルフ』 に戻る。 戻って、本来の目的を果たそう。

ひとつ大きく息を吐き、乱れた呼吸を整えて……





するとそこで背後から、じゃり、と砂土を踏み締める音がして。俺はゆるゆると後ろを振り返った。





＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝

※ジャック(ENo.1597)の日記に続きます （後半はジャック視点になります）
http://lisge.com/ikki/r/k/k1597.html#DIARY