かすかな呻きを聞き取って、伏せていた狼が顔を上げる。　
　のそりと立ち上がり、ベッドの上の声の主に顔を近づけて、鼻先が触れそうになったところで、ふんっと鼻息を吹きかけた。
　声の主の髪が息で軽く揺れている。
　さして驚いた様子もなく、こちらを見つめてきた。

「おはようございます、シュユ」

　撫でようと手を伸ばしてくるが、それを避けるように逃げる。
　床で威嚇のポーズ。
　だが唸り声はない。単なる格好。うるさくすると、主人に咎められることを知っている。

　不意に、笑い声が響いた。

「残念だったな、ジュジュ」

　ぼんやり外を見ていた娘が、一連の気配に気付き振り返っていた。

「不意をついてもダメなようですね」

　そう言って声の主の従者は笑って返して、身体を少し無理やり起こした。

「誠意が足りないんだろ？」

「誠意を持ってしてもなでられる気がしないんですけどね。
　……また倒れてしまったようですね、私は」

　一息つくのとため息が混じった息を吐き出す。

「良いから寝ろ」

　自嘲するかのような従者の言葉に、相手の額を手のひらで押した。
　押した力は強くなかったはずだ。
　しかし、自然と逆らって体勢を保とうとした瞬間、痛みを感じたのだろう、従者の顔がしかめられた。

「そういうわけにも参りません。私は従者ですから。
　お嬢様はお怪我は？」

「その従者は、サンに三度も背中を借りている事実をどう弁明する？
　お前に比べたら、かすり傷だ」

　そう言って、自身の頬のガーゼをぺちんと叩いてみせる。

「お前のおかげで、応急処置も上手くなった。見事なものだろう？」
「……薬はしっかり塗ったのですか？」
「薬も塗った、消毒もした」

　複雑な表情で問う従者に、げんなりといった体でため息をつき、ベッドに片足をかけて従者にゆっくりと近づく。

「ほら、お前の怪我も寝ている間にやってある」

　不意打ちで、従者に見せつけるように上半身の衣服をたくしあげた。
　完全に不意をつかれ、服をたくし上げられ、驚きつつも従者は自身で包帯にさわり確かめて。
　どうやらしっかりと処置出来ていることに、何故か失礼なことにうなだれている。

「申し訳ございません。本来であれば、覚える必要もない技術でしょうに」

「あの頃とは違うんだよ。
　恐怖に震え、ただ、デューを呼び泣き叫ぶ私ではないんだ。
　今は、これくらいのことは出来る」

　目の前に倒れた従者の火傷の姿に、ほんの一瞬、足がすくんだのは事実だ。
　あの頃を思い出してか、幼少の思い出を少しだけ口にする。

「成長、なされましたね。
　有難うございました。この身に余る光栄です」

　それでもなお複雑な表情を浮かべるが、次には頭を振って深く頭を下げてくる。

「成長というよりも、慣れだな。
　お前も怪我が多い人生だったろう？」

　そう言って、下げた頭を上げさせようと額に手のひらを当てた。

「……倒れた私に慣れられるのは、辛いものがありますね」

　今度は抵抗せずに素直に顔を上げて。

「デューの訓練は中々に厳しいからな。
　お前が本気だった分、本気でしごいたんだろう」

　素直に顔を上げれば、たくしあげた衣服を戻してやり、そうしてからベッドに腰掛けた。

「この身体にある火傷以外の傷の大半は訓練の傷跡ですからね。
　その分お嬢様の盾になれる程度には強くなれた、と思いたいですね。
　お嬢様のあのような顔を見たくありませんでしたからね」

　少し過去を見るような従者の瞳に、少しだけ言葉を飲む。

「……すまない。
　私の遊び相手になど選ばれていなければ、お前にあんな目に遭わせる事もなかっただろうに。
　昔も今も、これからも……」

　火は怖くはない。
　ただ、火傷は……昔を思いだして、ほんの少しすくむ感じがする。
　怒声と絶叫、剣戟の音が響き、黒い煙の中をひたすら走った幼い記憶。

「もしそうでなかったら、もしかしたらあの時お嬢様は……
　だから謝らないで下さい、お嬢様。
　好きで私がやっていることなのですから」

「父上への逆恨みだったんだよ」
　
　ベッドの上にひざを引き寄せて座り、従者の胸元を指差す。
　そこは、過去、自身を護るために残った傷跡がある場所だ。

「違いますよ、フラウ様。
　背負うべくは、貴族としての責任であって、法に触れ罰を負った者の最後の一噛みではありません。
　そこは勘違いしてはいけません。
　この傷を負うことを許してしまった時点で、側に居るものとして不覚だったのですよ」

　どこか執事長を匂わせる態度でそう言って、従者自身の手で胸の傷を隠されてしまった。

「私も子供、お前も子供だったんだ。
　鋼の前に飛び出しただけでも、勇気のある行動だったとは思うよ」

　あの当時は、従者ではなく単なる使用人だったのだ。

「そうですね、あの時はまだ何も知らない子供でしたね。
　あの頃は、アレしか出来ませんでしたから。
　今もご迷惑をおかけしている分、私の方こそ謝らないといけないのですよ。
　シュユにも迷惑をかけてばっかりで申し訳なく思いますよ。
　精進が足りませんね……」

　すいません、と狼に向けて頭を下げて、
「……手当、有難うございました」
　そういうにとどめて、薄く笑みを浮かべられた。

「何か、飲み物を淹れましょうか」

　痛みをこらえて起き上がろうとする従者の姿に嘆息する。

「たまには私の事など気にせず、ゆっくり寝ていろ」

　額に手を当てて押すだけでは無理だと悟った。
　今度は肩に手をかけて——そのまま、全体重をかけて押し倒すように。

「十分休みましたよ」

　案の定、力に抗ってくる。

「1日休めと言っている。
　痛みに顔をしかめて、何を言って——……った！？」

　抗いを感じた瞬間にその拮抗していた力が消え失せ、身構える事も出来ずに一緒にベッドの上に沈んでしまった
　勢いが良すぎたせいか、何度がスプリングの上でバウンドして。

「す、すまない」

　珍しく気恥かしさが勝ったのか、ベッドに顔を埋めたまま、消え入りそうな声で謝った。
　痛みで、十分な抵抗ができなかったのだろう。

「大丈夫ですよ。鍛えておりますから。
　お嬢様こそ大丈夫ですか？」

　顔をシーツに埋めていたせいで見えないが、耳元で小さい笑い声が聞こえた気がした。
　従者の手が頬に伸びてくる。

「この一揆に参加して、お前が鍛えているというのを忘れそうになるな。
　勿論、私もだが……包帯がいくらあっても足りん」

　ぷはっと、シーツから顔を上げる。

「……返す言葉もありませんよ。
　不甲斐なくて申し訳ありません。しっかり受け止められればよかったのですが。
　少し赤くなっているだけですね、大丈夫のようです」

　従者の手は頬に当てられたまま、親指で鼻の頭を軽く撫でてくる。

「それくらいも出来ないくらい、お前は重傷なんだ。黙って寝てろ」

「と言われましても、まだ掃除も洗濯も食事すら準備していませんからね。
　そう休んではおられませんよ。
　……あぁ、お食事はしっかりとっていますか？　また偏っていませんね？」
　と、それは思い出したような問い。

　言われて、こちらも、はたと思いだす。
　そういえば、従者が目覚めるまで何も食事していなかった事を思いだす。

「あー……偏ってはいないと……思うぞ。はは」
「……お嬢様？」

　一瞬目が泳いだのを見逃すほど、付き合いは浅くはなかったようだ。
　ジーっと半眼になって見つめる従者。

「はははー……っとと」

　ずっと従者の上に乗っていた事を認識し、上半身を起こして——
　お腹の上にまたがった。
　そうでもしないと、またこの男は起き上がるだろう。

「お前は何か要るか？
　たまには立場が逆になっていることに気分が良いんだ、運んでやるぞ？」

　ずいっと、本当に嬉しそうに、顔を近づけて。

「お嬢様……ご好意はこの身に余る光栄ですが、まずは降りて下さい」

　大きくため息をついた……ような気もしたが、視線をそらし瞳を閉じているている分では、実際は深呼吸だろうか。

「一緒に食事にしましょう、お嬢様」

　瞳を開くと当然とでも言うような顔で返して。身動ぎをする。

「怪我人を働かせるほど、私は鬼畜じゃないぞ？」
「では、その怪我人の上にまたがっているのはどうなのですか？」

　とため息混じり。

「さぁ、下に降りましょう」

　と、従者は身体を腕を使ってゆっくり起こし始めた。

「む。怪我人でも、お前は可愛くないな」
「そも、怪我人は可愛いものではありませんよ？」

　なんだかんだで鍛えてある身。
　自身を乗せたままで起き上がろうとする姿を見、眉をひそめ——

「サン、ジュジュの上で伏せ」

　そういうと、狼が「え！？」とでも言いたいような視線を向ける。
　それでも主の命令だとばかりにのそりと置き上がる。

「それは卑怯ではありませんか、お嬢様？」

　さぁさぁとでも言うようにひざを軽く叩かれ、かなり不満そうな顔を浮かべながらも上半身を起こしきられてしまう。

「ばっ、気安く触るな！」

　触れるのは良いが、触れられるのは恥ずかしいらしい。
　ひざをたたくその手を阻み、軽く睨む。

「私とサンは一心同体だ！」

　上半身を起こしきられ、完璧に従者のひざの上に座る形になってしまった。
　狼はベッドの上に前足をかけ、「どうするの？」とでもいうような視線を向けている。

「これは失礼しました。
　では、更に触られないうちにおどきください。
　さぁ、ご飯を食べに行きましょう。私もお腹が空きましたよ」

　少し困ったような笑み。

「お、お前は、どんな時でも可愛げながない！
　なにか食べたいのなら、一人で行けばいい！」」

　組まれた手をぶんぶんと払うように振り、完璧にへそを曲げたようだ。

「そういうわけには行きません。お嬢様も食べていないのでしょう？」
「お前は傷を早く治す為に、栄養は必要だろう。行ってきたらいい」

　そんな事を言いながら、従者のひざの上に座ったまま、見上げて睨む。

「お嬢様を一人でお食事をさせるわけにはまいりませんよ」
　と、一つ深呼吸をする。
　やはり余り体調がすぐれないのか、身体を起こしているだけで息が少しあがっているようだ。
　睨みつける視線のまま、やがて瞳を細めて見つめ、ため息をつく。

「そんなときまで私を第一に考える事はない。
　私は食事よりも、睡眠をとりたい」

　そういうと、従者のベッドに身を投げ出し狼を呼ぶ。
　共に食事をとれば、あれこれ世話を焼くだろう。
　思っている以上に軽い怪我ではないはずだ。

　ほんの少しの従者の沈黙後。

「……有難うございます、お嬢様」

　ゆっくり横たわりながら、小さく感謝の言葉を口に出す。

「何がありがとうございますだ。
　本当に感謝する気持ちがあるのなら、自分の体を労れバカ者が」

　呼んで傍に来た狼の頭をぎゅっとぬいぐるみのように抱きしめ、瞳を閉じた。
　その言葉は、吐き捨てるかのような声音にも似ていたが……

「……すいません」

　互いに空回りしてばかりで。

「すいません」

　と、もう一度だけ、背中に言葉が投げかけられる。
　だから。

「バカだな」

　背中を向けたまま、もう一度。

「……バカだな」

　そういうと、くるりと向かい合い、
「お前は、お前が思っている以上に、心配されているんだよ。
　少なくとも……デューは心を痛めるだろう。
　本当に、自分の子供のように思っていたからな。
　……だから、もう少し、自身を大切にしろ」

「……それだけ？」

　そう言った従者は、ゆっくりと睡魔に侵食されていく、心地いい感覚に意識を持って行かれるような……そんな無駄な力が抜けた幼い少年のような表情。

「……なんだ、父上たちも……と、付け加えてほしかったのか？」

　その声は囁きに似て。
　その穏やかな眠りに満たされていく従者を起こさないように小さな声音で。

「いまはゆっくり休むが良い。
　起きたら、またたくさん働いてもらわなくてはいけないのだから……」

「素直じゃ、ない……なぁ」

　完全にまぶたが落ちた顔で、薄く笑みを浮かべると、従者はそのまま眠りについた。

　こんな風に、緊張を解いて眠るのも久しぶりだろう。
　くすりと笑って、優しく頭を撫でて。
　ぐいっと、自身の背中を押す狼の行動を振り返り、人差し指をくちびるに当て、「しー」とたしなめる。
　何となく、狼が拗ねた表情になったのは、長年の付き合いだ、分からないわけはない。
　それでも……
　従者の寝息が聞こえれば、つられるように瞳を閉じた。



——————
※
ジョエルＰＬさんとのロール編集日記です。
ご協力多謝。

[>土人形のような機械が三拍子のリズムを刻んでいる。