「赦して頂戴、あなた」

　クリストフの手を包み込む、老貴婦人の細い指。

「本当は全てを取り戻したかったの。でも、もう時間切れみたい」

　老貴婦人の肉体は蒼い燐光を放つ。
　肉体は物語へ、物語から文字列へ、文字列から0と1とへ。
　帯を成し、クリストフをぐるりと包み込んでいく。

　既視感。古い遺跡に生じ、もはや失われた合成技術のそれに似ている。
　マナで編まれた生物と生物とを混ぜ合わせ、新たな肉体を作り出す邪法の気配。

「愛しているわ。愛しているからこうするしかなかったの。
　後悔はしていない。むしろ嬉しいくらいなの。判って頂戴。クリストフ、いえ」

　老貴婦人の唇が、クリストフの耳元にぐっとよせられる。
　囁く言葉。もはや使うことのない、かつて仲間と友に呼ばれた名前。

「君が何故、その名前を！」

　ふっと、身体が宙に浮く。
　地面に叩き付けられる。目の前には青い空。
　腕に抱いていたはずの、冷たく骨張った、愛しい人の感触は全くない。

「シドニー？」

　呼びかける声に応じる者は居ない。
　身を起こし、辺りを見回そうと変わりはない。

「これは、何の冗談だ？」

　両腕を見つめる。厳つい指先は確かに肉を伴っている。
　老貴婦人が契約したエンブリオ特有の、霊体や立体映像のような気配は何もない。

「君は一体、何をした」

　問いかける。この絶望的な状況を説明する者は、この裏庭の何処にも居ない。





トランクに君の手帳を見つける。
よくなめした皮製の、アッパーミドルクラスの男性が持つ無骨な一冊。
実用本位のかわいげもない手帳だ。

自分でも、今になって"女性に贈るべきものではない"事を感じている程だというのに。
君といったら、まるでブルーサファイアのネックレスをを貰ったかのように喜んでいたっけ。
何十年も前の物だというのに、未だに手放していなかったのか。
思えば——君に何かを贈ったのは、指輪を除けばこれだけだったかもしれない。

ページを開く。
思った通り、中にはびっしりと、その日の行動が書き込まれている。
忘れたくない記憶、出来事、感情、情報。あらゆるものが。

断壁のサンセットジーンはもう居ない。
聖人は物語の内に取り込まれ、英雄として頁を進める役目を背負わされた。
クリストフが十字架を背負わされる。しゃれが効いてる。面白くもない。

彼女の代わりに、残り少ない手帳の頁に、先の見えたどうしようもない英雄譚を描いていこう。
望むばかりで、与えることを怠った私の、せめてもの滅ぼせない罪滅ぼしだ。

エミリーは少し同情している……。

——そうか。そういう事だったのか。

老貴婦人は空を仰ぐ。
拳を、血が滴らんばかりにきつく握りしめる。
噛みしめた奥歯が鈍く音を立てる。

だが、それは一瞬のこと。
人の目に気付くが早いか、取り繕うように肩をすくめて。

シドニーさんが上げている両手を見て。
それからハクを見て、それからなぜか自分の足を見る。

右足を二回ほど地面にたし、たしと足踏み。
さらにつばさを両方広げてみる。

人間の言うところの"手"が小鳥では"つばさ"にあたる場所だとは気が付かない。
さすが鳥頭。

スズメは背伸びするように"ばんざい"している。
多分、シドニーさんの指先でならお互いにハイタッチ（？）出来るだろう。　

ぼんやりとハクがスズメを見ていると、シドニーさんが優しい笑顔で"スズメに触れた?"とたずねてくる。

御下座して頭は撫でさせてもらったようだ。

せっかくスズメに聞こえないように訊いてくれたのに、ハクの慌てた声で色々台無しだった。
彼はそのあたり、相変わらずタイミングが悪い。

すずめはもっふりしたお腹の羽根をぼふっ、とたてて、さらに丸くなって見せた。

倍に膨れた　ふくらすずめ　に　ハクはなぜかびっくりしたらしく、なぜかシドニーさんの背中の後ろに隠れてしまった・・・

ウンディーネは猛烈に感動しているようだ。それまでのたどたどしい標準語から一転して、一気にまくしたてた。

もじもじしながら左右を眺めたりしていたが、やがて意を決したのか正面から婦人の目を見据え、

　からからと明るい音で笑えば、ラファーガの鬣が風と一体化するようにたなびく。

　さらに大きく破顔すれば、その言葉はそのままの意味で、裏はない様子で…

　どうしたものかと、運び屋は首をひねっているようだ。

　
　いつもの朗らかさは消え、力強くにらめば、弓を大きく構え…

　
　運び屋は低く吠える！

日に焼けた書籍の匂いが空間を満たす。
周囲に浮かび上がる錆浅黄色のバイナリは執事の姿を描き出す。