吹きさらしの裏庭に、高らかにひびく口笛の音。

「ひゃー、すっげえなあ！」

　未だにノーライフキングの形を留めたままのそれを、
　感心しきったと言わんばかりのヒューゴが矯めつ眇めつしている。

　校正術士が魔術を使う際の欠点。
　表記の改編に気を取られるばかりに——大抵“現実”の方が疎かになる。
　大物を書き直すときは、自分の代わりに気を遣ってくれる護衛が必要になるのだ。

　今日の衛兵はヒューゴ、昨日のヒューバートの鏡像双生児。
　わいわい騒ぎながら観察を続けている。

「オレもこれくらい強いエンブリオに選ばれてりゃ良かったんだけどな」

　聞き捨てならない台詞にはっと顔を上げれば、
　わたくしの隣、ヒューゴの視線はわたくしの手の平に注がれている。
　正確には、わたくしが持つ一輪の花に。

　ネクター。

　一揆に参戦した際、ミス・ルリアンナより渡されたもの。
　あまりの美しさ。あまりの気品——常世に存在することすら奇跡のような一輪。

　事実、それは一般的な植物とかけ離れた性質を持っていた。
　根とは切り離され、一切の水も与えていないのに、未だみずみずしく咲き誇っている。
　数日前に散ったはずの花びらも、何事もなかったかのように再生した。
　蜜腺からは甘やかな香りが立ちこめる。

　ワインのように、血のように、赤い蜜。
　遠い異世界の物語で“神々が食する”とされるネクタールの様に紅い雫。
　エンブリオの血肉となる生命の水。

　それを見て、今にも食らい付きたいと言わんばかりのヒューゴの顔。

「まあ！　子供みたいな顔をして」

「ばあさんも一度食べれば判るぜ？　すっげえ甘くて美味いから」

　甘い物をこよなく愛する身には心惹かれる提案。
　それでも理性が待ったを掛ける。
　この世に“食べてはならないもの”“食べ過ぎに気をつけるべきもの”が存在することは理解している。
　全てを承知した上で、泥を被る老兵が居ることも。

「そんなに美味しいのなら、もっと食べたいのかしら？」

「あー……いや、いらねえよ。それはばあさんの“愛しい人”のモンだ。オレじゃなくってさ」

　何処か諦めたように笑う。
　双子の兄とは異なって、どうしようもなく嘘の下手な仔。
　その嘘に気付かないふりをするわたくしも、どうしようもなく嘘が下手。

「なあ、ばあさん——…いいや、レディ・ロル」

「なあに？　ヒューゴ、畏まっちゃって」

「絶対にさ、失敗しないでくれよ？」

「何をかしら」

　判っているんだろう？　と、恨めしげに問いかける瞳。
　微笑み返せば、安心しきったように彼も笑う。

「アレがフォレストドラゴンになったアニキなのか、
　アニキのフリをしたフォレストドラゴンなのか……オレには全然わかんなくってさ。
　アニキを救えなかったって失敗は、もう取り戻す術がないんだ。オレには」

　わたくしの視線にある頭を、そっと手の平で撫でる。
　彼は照れくさそうにそっぽを向く。

「大丈夫。失敗はしないわ、何度も夢見たことだから」

　幻聴。
　数多の屍を踏み越えて、彼が歩み寄る音が聞こえる。
　真っ暗な地獄の釜の底、手探りで、耳を澄まし、わたくしの指先を探す気配。

　エンブリオの血肉を生み出す紅い花。
　この一輪を弔花にするのも贈花にするのもわたくし次第。

　わたくしの声が、彼に届くかにかかっている。

目付きの悪い男が語りかけた。

溜息を吐く。

首を傾げた。