立ちこめる迷霧は冷ややかに。
　星屑の小川を染め上げて、飲み込み、包み隠してゆく。

「レディ・ロル。これでいいかい」

「ええ、完璧だわ」

　フォレストドラゴンとして帰参したヒューバート。
　本人曰く“なに、天候操作だと思えばいいよ。ちょっとした霧や雹を作り出す程度の”能力は、
　本来存在し得ないプライバシーという物を作り出すのに打って付けであった。

　ここは霧の中。
　ひとたび迷い込めば、指先すら見えぬ純白の城。
　龍の腹の内。隔絶された空間一面に描き出す、錆浅黄色の文字列はかつて見た物語の断片。
　あふれ出す死の気配に、ヒューバートはほう……とため息を零す。

「これはまあ……確かに、人目に触れるべきものではないね」

　“ノーライフキング”と呼ばれるエンブリオが一体。
　呪詛を吐き下しながら、数多の死者の群れを引き連れる化け物。
　落ち窪んだ眼には、一切の慈愛も見受けられない。

　不死者の穿つ地獄の門より、這い出るものは数多の死者。
　縋るリッチを蹴り飛ばし——見事にもげた腕を見るや、僅かに貌をしかめた。

「腐ってやがる」

　吐き捨て、いつものように肩をすくめる。
　気怠げ……というよりも、酷くあきれ果てた様子にも見える。

「それで、これをどうするつもりなんだい」

「もちろん。何時も通りにカンバスにするわ。
　あまりにも表記が大きくて、ねじ曲がっているから……少し時間が掛かりそうだけど」

　ノーライフキングより溢れ出る死はあまりにも濃い。
　骨張った指先を、暗く穿たれた瞳を、煉獄へと誘う地獄の門を。
　すこしずつ、彼の物語で塗りつぶしてゆく。

「ねえ、レディ・ロル。こんな物語を知っているかい」

　ふっと、背中に彼の声が響く。
　双子の弟と異なり、耳にするだけで気の滅入りそうな声。

「姫君はカエルを手の平に乗せると、そっと頬に口づけをしました。
　すると、なんということでしょうか。カエルは世にも美しい王子様へと変わったのです。
　呪いの解けた王子の姿に、姫君は一目で恋に落ちました。
　その後二人は結ばれて、睦まじく幸せに暮らしましたとさ。めでたしめでたし」

　彼の方を見やる。
　ぱたんと、本を畳むような所作。

　　　　　　　　　　ウェルフェア
「あなたには簡単に幸福を手に入れる道があった。開け放たれた門をくぐり、煉獄と地獄を越えずとも」

　苦笑い。幸いなんて手に入る前に手放した。再び手にする事もない。
　ここには“そうするつもりであった”ものの“そうはならなかった”現実だけがある。

　わたくしは魔術師であって夢想家ではない。
　此処に居るのはかつて彼に選ばれた——愛されたわけではなく——女ではない。
　一万の星々を集めても、輝くことのない老女が一人。
　現実は判っているし、見なかったふりを出来るほど暢気ではない。

「ねえ、ヒューバート。貴方はそれで“良し”とするのかしら」

「しないだろうね」

　浮かぶ想いを振り落とすかのようにゆっくりと頭を振る。

「約束したから。おれだけはおまえを見捨てないと」

　地獄の門は僅かに閉じ、瞳には錆浅黄色の光が宿り、骨張った指先は受肉してゆく。
　ほんの少しずつ、彼の形を思い出してゆく。

「奇遇ね、わたくしもよ」

　わたくしの救いは数多の死の向こう側にしか存在しないのだ。

　　　　　　　両手を広げて、喜ぶ仮面の男。

　運び屋は仔狼を解き放った！