一揆に参加してから、8日目。

　どうしたものだろうか。
　目の前に広がっている小川を見つめながら、俺は頭を軽く掻き乱しつつ眉をハの字に下げる。困り顔、というやつだ。

　宙を自由に漂うことの出来るエアナは既に小川の向こう岸へと飛び立ってしまった後で、今は姿が見えない。
　エアナに向こう岸の探索をお願いしたまでは良かったものの、こちら側でやることと言えば、空っぽになりかかっていた水筒に水を汲み、魚影すら見えるこの綺麗な川で魚釣りでも試みるくらいだろう。
　勿論、そのどちらとも既にこなした後だ。

　水筒は全て満タン、どう頑張ってももう水を汲むことは出来ないし、時間が掛かるだろうと思っていた魚釣りでさえ、数日分の魚が10分ほどで確保出来てしまった。
　そう。今俺は、暇を持て余しているのである。

　しかし此処は、平原をメインで進行している俺達のパーティにはそれは珍しい、水辺という場所なのだ。
　出来ることなら、時間の許す限り辺りを探索して、水辺でしか手に入れることの出来ない物を持ち帰りたい、という気持ちはある。
　あるのだけれど。

　そう言って、川岸のぎりぎりまで近付き、そっと川の中を覗き込む。
　透き通った水は底までしっかりと見せてくれる。
　こうして見ると案外浅いな、と思うのだが、そう思って片腕の袖を限界まで巻くってから川に入れてみれば、見えている筈の底に全く手は届かないのだ。恐らく、腰より上までは水にどっぷりと浸かってしまうのだろう。

　全身が浸かり、泳いで渡るしかないという状況には恐らくならないとは思うのだが、そこそこの流れがあるこの川では腰まで浸かった上で歩いて渡る、というのはもやしである俺には不可能だと判断するしかない。
　自分のことは自分が一番、解っているのだから。

　濡れた手を軽く振り、水分を飛ばしながら立ち上がると、目に留まるのは小川に2、3個ほど顔を出した大きな岩。
　その岩はパッと見等間隔で、流石に真っ直ぐとはいかないものの近しい距離に並んでいる。その岩の上を飛んでいけることが出来たのならば、向こう岸に濡れずに渡ることは可能であると思う。
　岩の大きさはそれなりにあり、大人一人ならジャンプをして着地して踏ん張る、くらいのスペースはありそうだ。
　ただしそれは、“至って普通な成人男性”を基準にして想像しているのであって、“至って普通な成人男性だが運動オンチ”の自分を基準にしたものではない。

　正直な話、厳しい。
　ジャンプして何とか岩に足が届いたものの、踏ん張りが足りずに川に落ちる。という流れが容易に想像出来てしまう。
　いや、もしかしたらそもそもジャンプしても岩に届くことすらなく落ちていくのかもしれない。
　チャレンジしよう、と自分を奮い立たせた上でそういう結果になってしまったらそれこそ、俺のチキンなハートには一生の傷として残ってしまいそうだ。

　どうする？
　行くか、——行かないか。

　川岸で、小川を見つめながら腕を組み、唸って悩む姿を見れば流石に可笑しいと思ったのだろう。1匹の大きな体をした白銀の狼が、少し不安そうな声色で声を掛けて来る。ケールだ。
　いつもはクールな表情も、主人の思い悩む姿に不安でも覚えたのだろうか、やや曇っているように伺える。

　ケールは普段探索に出ることがない。
　その大柄な体では、細かい物を見つけることが苦手だから、だそうだ。
　初めて探索をエアナちゃんと一緒にお願いした時には、見つけた可愛らしい華をうっかり踏んでしまうというミスを犯してしまい、俺が思うに、その出来事がちょっとしたトラウマになっているのかもしれなかった。

　今日もケールは、探索に出ていない。
　皆が探索に出ている間、その大きな体を生かして皆の荷物を守る、という新たな任務を得たことから余計に探索に出難くなってしまっているのだ。
　と、そこまで考えたところで、そうなのだ。ケールは荷物番をしている筈なのだ。
　まさか皆の荷物をほっぽり出して俺のとこまで来たのだろうか？ケールが居た場所から此処まではちょっとばかし距離があった筈。
　きょろきょろ、とケールの周りや背後などに視線を向け、荷物の行方を捜している、と、

　嗚呼、このエンブリオは何故こうも俺の心を察するのが上手いのだろう。
　鼻先でちょい、と指した先には大きな木が一本、小川に影を落とすように生えており、その太い根の集まる根元の窪みに俺達の荷物は丁寧に纏められていた。
　ケールは中々他の仲間に打ち解けてはくれないものの、こういう気配りは本当に上手い。それが一途に俺のため、ってんだから怖いくらいだ。

　少しばかり情けない話なので、気が引けるのだが。

　ははは、情けなさすぎて笑いがこみ上げてきた。
　恐らくそれは、にっこりとした爽やかな笑顔では無く、眉はハの字で苦笑い、といった方が正しい笑みなのだろう。

　散々迷って、悩んでいた俺に、ケールはいとも簡単に答を投げてよこしたのだ。しかも、お安い御用だと付け足して。
　ケールはそのまま地面に伏せ、乗りやすいように顎までも地面に付けて俺が背中に乗るのを待っている。思えば、初めて会った時に俺すら背中に乗れそうなほど大きい体だ、と思いはしたが、実際に背中に乗れる日が来るとはこれっぽっちも思っていなかった。
　急な出来事に取り乱し、躊躇ってしまう。
　すると中々背に乗らない俺に痺れを切らしたのだろうか、「梓、こちらに来い」と声を掛けられ呼ばれたため、俺はケールの顔の前まで歩を進めると、地に顎を付けているケールに合わせるように地面に片膝を付き、屈んだ。

問い掛けを全て投げ掛ける前に、俺は首元をケールにかぶりと甘噛みされ、そのまま——

　ひょい、効果音にするとこんな感じだろうか、ひょいっと俺を自分の背中目掛けて放り投げたのだ。ケールの頭部で顔面を打ち、そしてそのまま反動で背を背につける形でケールの背中に着地する。
　なんて無茶をしてくれるのだろう。
　ひりひりと痛む顔を片手で覆いながら、恨み言一つでも言ってやろうと仰向けから俯きに体勢を整え、首元の毛を一握りほど掴む。

　ちょっと待て。
　確かに掴まっているといえば掴まっている体勢ではある、お前の一部の毛に。
　しかし掴まっていろ、と念を押されるほどだ、この程度の掴まり方では明らかにやばいのではないのかと胸が騒ぐ。嫌な方だ。
　勿論、その予感は的中してしまうのだが。
　
　
　
　ケールはすくりと立ち上がった。
　俺を背中に乗せたところで一切の支障はない、とでも言うように、いつもと同じようにすくり、と立ち上がる。
　2、3歩前に出て川岸で立ち止まると、目の前に広がる小川を確認するように見つめ、そして小川から顔を出している大きな岩の場所を1つ、1つ、丁寧に確認していく。
　背中から見たケールは、耳と後頭部くらいしか見えず表情なんて殆ど伺えなかったが、何となく何処を見て何をしているのかは感じられた。嗚呼、今、あの岩を見てる、といった感じに。
　丁寧に岩を確認している、と俺には思えたが、しかし、その時間は俺が思っていたよりも短いものだったようで、ケールの次の行動にうっかり反応が遅れてしまったのだ。
　これは中々に、致命的なミスだったらしい。

　気付いた時には体がふわりと宙に浮く感覚が、俺を襲っていた。
　そう、ケールの次の行動は丁寧に確認した岩に飛び移る、という行為であり、反応に遅れてしまった俺は僅かに握られていた毛の束一つで何とか体を支え、空中に投げ出される一歩手前を維持していた。
　すとん、と軽やかにケールが岩に着地し、自分の体もケールの背中に埋まる。
　しかし岩は3つあったのだから、この行動があと2回続くわけであり、1回目で自分の持つ全ての握力を使い果たしてしまった俺は大人しく、そして思いっきり、ケールの首元に腕を回して残り2回の岩移動を必死で耐えるしかなかった。

　なぁ、ケール。

　戦闘でも、探索でも、な。
　そう言って、ケールは小さな丸い目を伏せると甘えるように顔を俺の顔に擦り付けてきた。
　
　こいつは本当に、本当に可愛い奴だと、俺はこの時、心からそう思えたのだ。