夏の一日とは慌ただしいもので、昼の間は海でひとしきり遊ぶこととなった。
塩水というのは時間を置くとやっかいで、不快なべたつきと香りを残すこととなる。海を後にする際、海の家（百日紅が借り切って経営していたものだ）のシャワーで取りあえず流しはしたものの、屋敷に帰ってまず本格的に洗うことにした。
真水の柔らかな感覚は、海と地上を隔離する感触のひとつだ。
この水を浴びることで海水の感覚をリセットし地上に戻る。同時に海水に浮いていた浮遊感が無くなっていき、地上に足を下ろしている感覚が戻ってくる。
浮いている状態から地上に足を下ろすというのは胎内から生まれ落ちることと同義だ。
安全を約束されていた母親という聖域を拡げその生を刻み始める。安全からの独立。
今は亡き母親の顔を思い出した。
母親は私が能力を発現するとほぼ同時に死んだ。母親の死が切っ掛けで能力が発現したのか、はたまた逆なのか——
能力の発現法則は解明されていないものの一つだ。
能力者は差別と畏怖の対象だ。血縁からそれを生み出すという悲劇は、残念なことに私より以前に一族（そんな大仰な血ではないが）は経験していた。能力者という特異は、血の繋がった者でさえ忌み嫌う対象になるのだ。勝手に発現して人間関係を粉々に打ち砕いていくという意味では、能力者ではなくその者が持つ能力自体が畏怖の対象にふさわしい。
息子が能力者になるという悲劇を目の当りにしなかった母親は幸せだったのだ。恐らく私にとっても幸運なことだった。
世間の差別から我が子を守るのか。それとも我が子を切り捨てるのか。

思い返せば、あの女性は至って普通の人間だった。
普通の。世俗に流されやすい、染まりやすい人間だった。

身近な人間から切り捨てられる体験をしなかっただけ、私は運が良かったのだ。

身近な。
私がツグミを切り捨てる筈がない。私が切り捨てないのであれば、その逆はもっとあり得ない。
未来永劫切り捨てることはなく、私が世話をしなければならない。


シャワーを止めると同時に頭を巡っていた考えも止めることにした。
髪を手で梳くと、いつもとは全く違った感触がした。
（塩で傷んだか……）
特別手を入れているというわけではないが、髪があるかないか、と言われればまずあったほうが良いに決まっている。
この年齢から来る、という事象も聞いたことがある。見えない恐怖に怯えるという感覚は私には分からないが、こうして常にあるものが減っていくというのは間違いなく怯えるべき恐怖だ。
大丈夫だ。私の家系はどっちかといえば白髪になる。


＊＊＊＊＊


風呂に入る順番は、いつも私が先だった。
理由は簡単だ。ツグミは言えば風呂こそ入るものの、髪を拭くという行為がおざなりで（どれくらいかというと、雫が落ちる程度だ）見ていられないものだからいつも私が乾かしているのだ。私が風呂に入っている間にツグミが風邪をひいては困る。
これはツグミの能力に関する意思の欠如というよりは、生来の癖のような気がしてならなかった。乾かす手間よりも、私はこの不完全さが人間味を帯びていて好ましかった。
ツグミを座らせ、柔らかなタオルで髪を拭いていく。少し茶を帯びた髪は海水に浸かった後でも滑らかだ。
「ツグミ。海は楽しかったかい」
「………………………うん……………」
「たまには悪くないものだな。元居た場所では海なんて行く機会すらなかったから……お前はどうだった？」
質問を投げかけながら私は過去を思い出していた。私の住んでいるところから海は遠かったのだ。

「………………海…………………小さいときは、あった」
私はその返答に驚いた。それと同時に少し羨ましくもあった。
平凡で平和だったはずの子供の頃の記憶を思い出すことが私には難しかったからだ。地理的なことは思い返せても、出来事やその時の気持ちは色あせて消えつつあった。
特別なことはない。それを消し去る程に今と——少し前の記憶が色濃く残っているだけだ。良い記憶とは言い難いのが残念なところであったが。
それにツグミと私の年齢の開きを考えれば、ツグミの子供の頃など精々十年と少し辿れば物心があるかどうか危ういほどになってしまう。
子供というには大きすぎる、弟というには小さすぎる。
私とツグミの間にはそれほどの年齢差があった。
「そうか。私は小さい頃の事は殆ど忘れてしまったよ。その思い出と……そうだな、それから今日の事も、覚えておいで」
「…………………………………………………」
私は髪を拭いていた手を止めた。後は自然に乾くのを待てばいい。



＊＊＊＊＊


「しかし旦那様、わざわざこのように着替えなくとも……っ」
私の言葉は、息を吐き出したのを見計らったようなタイミングで絞められた帯によって遮られた。
東洋の（より限定するならば極東の、といったところだろうか）服というのは、ボタンがひとつもない。花屋敷の中ならば、百日紅が常に和装を身に着けている。一体どのように着ているのかは見ただけでは分からない。
観察していると。和装の仕組みは紐と帯で締めてあるだけという何とも心もとないものだった。今こうして着付けを行っている際にも、足元の布地はひらひらと危うい。
いつも百日紅が身に着けている着物とは違い、私が今着ているのは浴衣という夏の装いであるという。

「いいじゃないか。君は背が高いし一度着せて見たかったんだよね」
座椅子にかけ、肘置きに寄りかかりながら着替えの様子を眺めている百日紅が言った。私とツグミが浴衣を着ることになったのはこの人が発端である。ちょっと、と呼ばれた先に来てみれば有無を言わせず服を脱がされ着替えさせられている始末だ。
私やツグミは勿論着付けが出来ないので、百日紅の配下が実に手際良く行っている。
和装の着付けとは忙しないもので、前から後ろ、後ろから前へと紐や帯、手が動いていく。それでいて、私が少しでも後ろを振り向こうものなら、動くなと背中をひと叩きされる。マネキンになったような気分を感じる。
「和装というものは、西洋人に向いていないのでは？」
「和服の丈って東洋人の背丈に合わせてあるからねえ。ほら、足の長さとかさ」
百日紅の持つ緋色の扇子が私の足を叩く。
「ツグミちゃんはその点心配なかったんだけど、折角だから二人に合わせた丈で作ってあるよ」
「オーダーメイドということですか？　何もそのようなことをして頂かなくても……」
「着せてみたいって言ったじゃないか。だからいいんだよ」
懐が暖かい者の余裕を感じる。
ツグミを見れば私のように動きに翻弄されていない事もあってすでに着付けが終わっていた。
すでに締め付けられている腰の上辺りが苦しくなっている私とは違って、涼やかなものだった。少しこちらに近づいて私の着付けが終わるのを待っている。
くすんだ青緑の浴衣はツグミに良く似合っていた。普段色のある服を着せていないせいで新鮮に映る。
背中で帯が結ばれる感触が終わり、百日紅の配下が私の傍を離れる。どうやら終わったらしい。
私の浴衣は濃い茶色のもので、触ればそれだけで上等な生地だとわかる。遊び心でこのような品を用意する百日紅の感覚は仕事重視の私には分かりそうにないかもしれない。
「うん、やっぱり似合ってるねえ。様になってるよ。きついところは無いかい」
「帯が苦しいのですが」
百日紅が実際に触って確認する。
「普通だよ。これくらい我慢しなきゃね」
理不尽さを感じつつも、確かにこれ位締めなければ形が崩れてしまうのも頷けた。
百日紅はそれだけでは満足せず後ろを向かせたり一回転するように言ったりとしばし私たちを鑑賞した。マネキンから脱却できずにいる私たちをよそに、満足したらしい様子でうん、と頷く。
「じゃあ後は服を片付けて皆と合流しようか」
私は二人分の服を抱えるべくしゃがみ……これが意外に難しく何とも覚束ない様子になっていたと思うが、兎に角畳に置いてある服を回収しようとした。
ツグミの服を取ろうとした時、私の視界に不可解なものが映る。
（……鳥の羽根？）
羽根、と言っても小さなもので、風切り羽ではなく羽毛の部分にあたるものだったが、この場に存在するには少々おかしいと思えるものだ。
白い羽毛は特に変わったことのない普通のもの、に見える。
（枕の羽根が出てきたか？）
羽毛が詰められた枕を思い出して私はそうであると結論付けた。

「なんや、イケメンは何着てもイケメンやな」
襖が開く音がすると、そこには佐久呂が立っていた。褒めているのか皮肉を言っているのか分からない台詞を一つ言うと同時に遠慮もせずに中に入ってくる。一応私やツグミの脱いだ服などが置いてあり、恰好からもいかにも今着替えていますという雰囲気を醸し出しているのだがその辺の羞恥は全く無いらしい。
「ちょっと、お披露目まで内緒だったのに。ここは男子専用だよ」
「男がそんな女々しいこと言わんの」
佐久呂は手に袋を持っており、その中を探ってアイスを一つ差し出した。
透明の袋の中に水色のアイス——何故か棒が二本刺さっている。差し出されたものだから普通に受け取ってしまった。
「えらい懐かしなー思うもん売っとったから買うてきたんやけど」
棒が二本という未だかつて見たことのない物だったが、良く見ればアイスの中央は窪みと溝があった。成形時にこういう形に意図的にしているようだ。
「なるほど……これは、割ればいいのかな。一つで二人分」
「さて、紳士はちゃあんと割れるか？　このアイス。見かけによらず案外難しいんやで」
「割るのに難しいも何もないだろう」



考えなしに割ったアイスは綺麗に半分に折れる……ことはなく、片方の上部あたりから割れてしまい、本来想定されている形よりも短いものがひとつと、忘れ形見のように片方の上部をくっつけた大きいものが出来上がった。
思惑通り、という佐久呂の笑い声を聞き流しながら、私はツグミに問いかける。
「ツグミ。どっちが良いかい」
「……………………………………」

ツグミは無言で短い方のアイスを選んだ。

はっ、と意識を引き戻した

真那霞をちらりと見ると、懐から子供が扱うような大振りのビーズを取り出した。