※前回の日記と同じ日

「おはよう。良い匂いだ」
朝食の香りを嗅ぎつけて階下に降りていく。どんなに非常事態であっても体は同じように栄養を摂取せずには居られないのだ、欲求として現れずとも、不足すれば体は動かない。人間の体というのは、本当に合理的に出来ている。
「あ、おはようございます！」
「ユーくん、つぐみん、おはよー！」
ルクリとトーカが率先して朝食の準備を手伝っていた。一瞬——気づかれない程度に、私たちの表情や気配を読み取ったような気がした。これも致し方ないことだった。幸いにも、昨日までとは違い、私の心は幾分か穏やかであった。ツグミの感謝の言葉をどう咀嚼するか考えあぐねてはいたものの。
私が軽く手を上げて挨拶の返しとすると、にこやかな笑みが返ってきた。その後、私の横でツグミが——小さく呟く。

「……………………おはよう」

ルクリの尻尾が真上に立ち、トーカの瞳が大きく見開かれた。勿論私も例外ではなく開いた口が塞がらなかった。
ツグミが自分から挨拶を返すことは無かった——そう、私以外には。
「えっ？　え？　つぐみん？」
「………………………………………………」
事態が呑み込み切れないトーカが、左程身長の変わらないツグミに近寄り、唸りながら顔を観察する。トーカの赤い瞳が忙しなく動くのが何だか可笑しかった。ツグミの泣き腫らした顔は静まっており、特に変わったことはなかった。自分の名を呼ぶトーカに、何か、というような視線を投げかけている以外は。
「うう〜ん？　ねえ、今、挨拶してくれた？」
「………………………………うん」
「……！」

ルクリの頭に咲いている花が、軽い音を立てていくつも満開になっていった。

「ちょっと、大変たいへん！！　みんな聞いてー！」
私が止める間もなく、ツグミはトーカに引きずられ居間へと向かっていった。


＊＊＊＊＊＊＊


「つぐみん、私のことわかる？」
「…………………………トーカ」
「わああ、じゃあ、私はどう？　……あと、こっちも！」
「………………ルクリ………………………カレン」
「名前を知っていたんですね……いえ、どちらかというと、こんなに話すことが出来たのですね、という感じでしょうか」
お嬢さん達に玩具にされているのを遠巻きに眺めていると、百日紅が扇子で私をつつきながら口を開いた。
ツグミが言葉を紡げることを心底喜ばしいと思っている様子で、顔には薄く笑みが貼りついている。
「やあ、良かったね。……君以外には全く反応がないからずっと心配していたんだよ。それなりにね」
ツグミが他人と言葉を交わすことなど、勿論想像出来ないことであった。強引な手段を用いれば可能であったそれが、簡単に問うだけで成立してしまっている現状にいささか混乱を覚えるも、昨日の出来事を思えば不思議だとは思わなかった。
私だけが意思の疎通を図れる、その優位性はからくも崩れていたのだが——怒りや嫉妬といった感情は湧き上がってこなかった。考えるまでもなかった。
「なあ、ツグミや。何でそんな急に喋れるようになったんや？」
「………………………………………………………」
「そっかあ、分かんないよね？」
佐久呂の問いかけに顔は合わせど何も反応しなかった。トーカがすかさずフォローに入るも、その言い分は半分程しか正しいとは言えなかった。
——あのエンブリオの、あの男の。
ツグミが自ら語った出来事を聞いている私には、今の現状はすんなりと理解出来た。あの男の力が加担していることに不快感は覚えるとしても。それにツグミの感謝の言葉が私の心を満たしていた。他人の問いかけに口を開くことが可能になったが、それ以上に私には饒舌に——そう、私だけに、感情を吐露してくれる。

「つぐみんはー、お餅の食べ方は何がいい？」
「……………………………………………」
「お醤油と黄粉と、あと大根おろしもあるけどどうする？」
「……………………………………………」
「ん〜、選べない？　困ったなー」
朝食の餅の（私は食べることを遠慮したが、ツグミはあれが好きらしかった。ゴムのような……理解出来ない）味付けを尋ねるトーカに上手く答えることが出来ないらしいツグミに、助け舟を出してやる。
「…………ツグミ。何が一番美味しいんだ？」
「……………………………………焼いて、お醤油と海苔」
「おおっ！　日が経ってるしそれがいいかもね！　オッケー、じゃあ焼いてくるねっ♪」

勇み足でトーカは立ち去ったが、まだまだ解放はされないらしい。ルクリは自分のとツグミの髪を比べ、羨望の表情をしていた。彼女の緩やかに波打つ髪に対し、ツグミは流れるようにまっすぐだ。
「いいなあ、さらさら……何か、手入れとかしてる？」
「…………………………………してない」
「乾かすのにコツがいるのかなあ……」
「…………………………………乾かしてない」
ルクリにはそれが大層羨ましかったらしく、自身の髪の手入れがいかに大変かを嘆いていた。
そんな一幕を見ていた真那霞が——私のはす向かいに座っている、その科学者が性分に従い観察していた結果を呟く。

「彼はまだ、事実しか話せないのね」
「事実？　どういうことや先生」
「思考が伴う返答が出来ないようだと思うけれど……どうかしら」
答えを求められるように話を振られていささか戸惑う。確かにそうかもしれない——他人の問いかけだからということはなかった。私に話していたことも突き詰めれば過去の話、思考が伴わずとも伝えることは出来る。
そういえばあの時、ついにツグミの感情が分かったのは最後の一言——感謝の言葉、だけだったのかもしれない。

「そうかもしれないね」
「曖昧な返事だねえ。……まあそれでも、やっぱり嬉しいものだね。成長というのは」
百日紅が締めくくるようにそう言うと、めいめいが食事に戻った。



セロと佐久呂の視線を感じ私も箸を動かしていた。
特に——佐久呂からは、あとで話をつけておく必要があるほど厳しいものが注がれている。
（ああ、それでも）

まだ、私「だけ」のものを、ツグミはいくつも持ち合わせている。



※チキレ時間ない文章です