——鳥が、死んだ。




部屋に入った途端、横に立っていたジェラールは小さく驚きの声を上げた。部屋の中は酷く荒れていて、家具や調度品という全てが原型を留めていなかった。引き裂かれたカーテン、大穴の開いた壁。懐中電灯の明かりに頼り辺りをざっと見渡しても、思いつく限りの穴の開いたものを見つけることは難しかった。
血濡れの殺人現場じゃあるまいし、何を大層なことをと思う。最もこの奥で野垂れ死にしている可能性も否定はできないが、こうなったのは精々二、三日前といったところだ。それくらいで人間は死にやしない。
「いいかい、私より先に歩くんじゃないよ」
「ですが」
「私は顔パスもいいところさ。他人のお前たちが下手に刺激すると、何が起きるかわかりゃしないからね」
流石に血みどろは御免だった。躊躇なく部屋に——勿論土足で上がり込む。荒れ果てた部屋で人間を見つけるというのは、砂漠で一粒の金を見つけることに比べればひどく容易い。それでも中々目当ては見つからず、蝶番が吹き飛んだドアをおもむろに剥がすと、検討こそ外れたものの興味深いものを発見した。
「鳥籠」
質素なデザインだが、一目見ただけで高価なものと分かる鳥籠が鎮座していた。緩く曲線を描く支柱に吊るされた籠の中には、恐らく存在すべき鳥の姿は無かった。よくよく近づいてみると、確かに鳥は居た。——籠の底、水入れに頭を引っかけたような形で死んでいる。頭部が半分ほど水に浸かった死骸はまるで水死体のようだった。暴れた形跡もなく、静かに死んでいったことを伺わせる。
生憎鳥の種類など数える程しか分からない。薄茶色の体毛をした小鳥は、まあおそらくは野鳥だったのだろうと推察するのがやっとで、名前まで出てくるものではなかった。
「そりゃあ、これだけ部屋が滅茶苦茶ならショックで死んでもおかしくないですね」
脇に控えたハンスがそう言った。事情を知らなければ、そう見えるのも無理はないのだろう。
鳥籠には閂がひとつ備え付けられていたものの、それを覆うようにかけられた南京錠が目についた。それも三つ——鍵をかけるにしてはいささか常軌を逸している。決して逃げないように、ひどい念が込められているような気がした。
外界との繋がりを絶たれたこの籠の中での唯一の逃げ道、つまりは死によって逃げられていては世話はなかった。どれだけ囲いを丈夫にしても、迫りくるものからは逃れることは出来なかった。つまり、そういうことだろう。
「逆だね」
「逆、とは」
「死んだ方が先ってことさ。……そうだろう、ユーグ」
ベッドの影、我々からの死角となる場所に目的の人間は蹲っていた。


＊＊＊＊＊＊＊


私の屋敷に連れ帰り（その為のジェラールとハンスだ）飲まず食わずだったみすぼらしい姿をどうにかするように伝える。
ひどく消沈しているユーグは一睡もしていない様子で、髪は乱れ髭は伸び放題といつもの姿とはおおよそかけ離れていた。こうなることは二、三日前に『わかっていた』が、それはそれとして事が起こった直後に訪ねようものならそれこそ体のひとつやふたつ吹き飛ばされているに違いない。頃合いを見計らって一応は助けてやるというのが、ユーグと私との常だった。
そう、とくに珍しいものではなかった——付き合いが長くなれば長くなるほどその回数も減っていったが。
「まあ、今回は鳥だろ……この前の花も酷かったな。寿命があるというのは、どうしようもないね」
髪を乾かすのもそこそこに、両脇をリヨンとサミュエルに抱えられるようにユーグが連れられてくる。歩く気力もないらしい——表情は酷いものだったが、髭は剃られていてこざっぱりとしていた。
「お前さん三十路だろ？　大の男が情けないったらないよ」
「…………マダム、」
ルージュ、と言ったであろう部分は音にならず唇が動くばかりだった。ユーグは長い付き合いもあり私の本名を良く知っていたが、私がそれで呼ぶことを良しとしなかった。マダム・ルージュ——私はその名の通り、赤い口紅を好んだ。
「仕方ないさ、あれは寿命だったよ。私には『そう見えた』のだから、それはきっと真実だ」
「……また、俺の夢を見たのか……」
地を這うような声だ。いつものことだった。
能力者はその能力を得る代わりに、何かを失うように出来ていた。何かという部分については、具体的に言えば精神の均衡であるらしい。
厄介なことに、崩れてしまった精神が乱されるようなことがあれば、その歪みは輪をかけてひどくなり——そう、目の前のユーグがいい例だった。
ユーグが能力を手に入れてこれまで、彼はとにかくものに執着していた。
もの——法則を見つけることは五回目で諦めた。最初はガラスの人形だった。次は一冊の本、絵画、変哲のないスプーン、押し花……挙げればきりがない。
とにかくユーグはものに執着心を見せることばかりだった。
執着——世話をする、と言ったほうが近かった。人形やカトラリーを丁寧に磨き上げ、誰にもそれを侵されないように自らの傍に置いていた。単に鑑賞目的で傍に置くというわけではなく、自分が使えるものならば好んで使っていた記憶がある。同じ本を何度も繰り返し読み、丁寧に砥がれたナイフで果物を切っていた。それでいてページや刃が欠けようものならば不機嫌を通り越して怒りを爆発させるのだから、ユーグの行動はどこか矛盾していた。矛盾していることに驚きも憤りもない。それが、能力者の、とりわけ本人にとっては当たり前の事実であるのだから。
皮肉めいた話だった。ユーグの能力は大雑把にいえば穴を拡張することだが、それはものを変形させる——やり過ぎると破壊してしまう力だ。破壊の力の反動か、それとも代償か、ユーグはとかくものに執着していた。
それが無くなったり壊れたりしたときは、酷く気が動転して力を抑えることが出来なくなり、一通り感情の波が過ぎ去っていくと今度は殻に籠るかのように塞ぎ込んでしまう——そう、今のように。
執着との別れが、第三者が介入したことによって起こるときは一番悲惨だった。加減されていない彼の能力というのは殺傷能力に長けていた。触れずに殺せる。おおよそこの場合第三者の命は失われていた。それを思えば、今回はまだ優しいほうだった。血にまみれたユーグを助けずに済んだだけでも。

「夢見が悪いったらなかった。まあ、いつものことだからあまり気にしないさ」
鳥が死ぬだろうと、そしていつものごとくユーグが暴れに暴れるだろうと分かったのは、私がそういう夢を見たせいだ。
予知夢——私の能力は、酷く洗練された名前が付けられている。
能力者が社会的に差別されるこの街で、私は早々に人生をドロップアウトして闇の中を紛れて生きていた。私にも恐らくは、どこか『精神的におかしい』ところがあるのだろう。ところが自分自身では当然に気付くはずもなく、私は日々を生きていた。
マクシミリアンの淹れた紅茶に手をつける様子もないまま、ユーグはとにかく項垂れていた。顔見知りを見ることでいくらか気持ちは穏やかになったらしい。ここまでくれば後は時間の問題だった。凶暴な牙を剥くこともない。
——時間の問題。次にユーグが『何か』に強く惹かれるまで。
「あれは、何ていう鳥なんだい？」
ずっと気になっていたことを私は口に出す。飼い主であったはずのユーグは、少しの間があったあとようやく口を開いた。
「……知らない」
「知らないで飼ってた、ってのかい。あれは野鳥か？　捕まえでもしたのかい」
「……窓辺に……来るんだ。餌をやったら毎日来て……それで、ずっと…………ああ、でも、見たら動かなくなっていて」
乾いた音とともに、ユーグの目の前にあるカップが割れた。派手に飛び散ってこそいないが、中身は全て零れてカーペットを濡らした。
そういえばティーカップには取っ手があったのだ。丸い輪の——穴の空いた。
ユーグの精神を乱したことより、私はお気に入りのティーカップが割れたことの方にしまったと思った。マクシミリアンの淹れた紅茶も。
レオナールがタオルを持ってこちらにやってくる。割れたカップを片付け、辺りを拭いている。
「怪我をしないようにね」
はい、と一声返事する頃には掃除はすっかり終わっていて、ティーカップの残骸とともにレオナールは下がっていった。廊下に出る途中、ぼんやりと突っ立っていた人影に衝突する。あわや欠片をまた飛び散らせるところだったが、レオナールの機転によりそれは免れた。
ドアの前にも関わらず、他人に配慮することなく立っている少年に私は声を浴びせた。
「お前、そんなところに突っ立っているんじゃないよ！　そこからお退き」
声を荒げた私に、気分とともに沈んでいたユーグの顔が自然に上がっていた。
「……珍しい、マダムが男に怒鳴るなんて」
「私だってね、役に立たない木偶は嫌いなんだよ。……それに、向こうから転がり込んできたようなもんだ」
そう言うと、私はソファに凭れ掛かり煙草をふかし始めた。
その少年は色白で整った顔立ちをしていて、酷く美しかった——しかし、それを差し引いても余る程に何もしないというのは私にとって評価を下げるものだった。何もしないどころか、こちらが手を差し伸べてやらないとろくに食事もしない。

「一週間前に手紙が来てね。どこぞの馬の骨ともしらない男からだったが、これが傑作だったんだよ」
——もうすぐ俺は死ぬだろうから、その時にこの場所を尋ねてきてほしい。
いかにも病人が書いたようなのたうち回った筆跡で、ようやくそれを読むことができた。その後には一言だけ書き添えられていて、つまり礼儀も作法も全く知らない者からの無礼な手紙に違いなかった。

「その時、俺の傍に居る奴を拾ってやってくれって……名前も顔も知らないっていうのに、きっと私の噂を聞いて出したんだろう。迷惑な話だよ」
「それで、彼を拾ったと」
凭れ掛かっていたせいで上を向いていた顔を戻せば、ユーグは音もなく佇む少年を見ていた。この場合、食い入るように見つめていた——というのが正しいのかもしれない。私は口許に笑みが浮かぶことを我慢できなかった。
「ああ。名前は私も知らない。ひとっつも口を聞きやしないんだ」
「そうですか…………」
ユーグは完全に生返事だった。
「そう、確か差出人の名前は……リン、と言ったかな。行ったら確かに死んでた。確かに横にはそいつが座ってた」

義理も何も無かったが、死人の最期の頼みというのはどうにも断りづらかった。私、マダム・ルージュが男を屋敷に集めているという事実はこの界隈では有名どころか常識のようなものだった。それを燕やら男娼やらを飼っている風に言われるのには慣れていたが（事実無根だがそう見られても仕方がない。ただ、私は男たちと静かに暮らしているだけだというのに）利用されたのは初めてだった。
初めてそのようなことをされたことに賞賛を与えるように、顔も——死に顔しか知らないそのリンという男に、利用されてやったのだった。
「どういう訳か知らないが、喋らなければ動こうともしない。食事も風呂も何もかも他人任せだ。……世話をしなければ死んじまうだろうさ……『誰かが』世話をしなければね」
決定的な言葉を投げかけると、その少年を見つめるユーグの瞳はすっかりいつもと変わらない様子だった。余裕ぶっていて、少しだけ不遜な。


「マダム。一つ頼みが」
「いいだろう。持っておゆきよ」
一言そう告げると、ユーグは少しばかり表情を幼くした——ああ、出会ったばかりの顔が良く思い出される。
新しい「もの」を見つけたときの表情は、幼い時分より何一つ変わっていなかった。ユーグが三十路になり、私が五十といくつを越して歳を数えるのをやめてからも、何一つ。



「ありがとう、シャルル伯母さん」


甥っ子は、そう言うと少年の手を取り屋敷を去って行った。


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「ひどいですね」
ダニエルがそう言った。
「全部……あの少年を拾うところまで、夢に見ていたのではなかったのですか？」
「私も甥っ子には甘いからねえ」
それだけ言うと、私はギルベルトに扉を閉めるようにだけ言うと、屋敷の中へと戻った。
私と——両の手を使ってもとても足りない数の男たちが居る屋敷。

ポケットから、金の鎖が滑り落ちる

トーカは微妙な物体を放り投げた。