ひとしきり泣いて、やがて我に返って身を離す。
「ごめんなさい」とわびる声は小さくか細く、そして泣き疲れて掠れていた。
それでも、気を奮い立たせて笑みを浮かべる。

「……いやだわ〜　夢中で…こちら側まで来ちゃったわね〜。
せっかくだから、エンバーさん、先生に、お会い、していかれない〜？
ほら、前に言ったでしょう〜？　先生なら、エンバーさんに魔法をかけた方のことかなにか、ご存知かも、って」

声は、震えていないだろうか。
笑顔が、ぎこちなくなってはいないだろうか。
瞼が重い気がするけれど、腫れていやしないだろうか。
もう、これからは帰るところなどないのだ。ひとりでも、立てるようにならなくては。
彼の顔を見ず、てち、ときびすを返す。
こっち、とガチョウの獣人たちの住む村の方を指差して、けれど先に立って歩き出そうとはしない。
彼が隣に並ぶのを待って、そっと、その手を握ろうとする。
幼子のように、手をつないで歩き出そうと。
その指先は、ちいさくちいさく、震えていた。

　*　*　*

対岸の村を歩く。夜は更けつつあり、出歩く人もさして多くはないけれど、行きかう村人は皆、人と同じ大きさのガチョウの姿をしている。
こちらに気づいて声をかけてくる人もいる。いつもなら一言二言、言葉を交わすところだけれど、今日は会釈を返すのがやっとだった。
そのまま、ひとつの家の前に立つ。
庭の広い、小さな家だ。綺麗に敷き詰められた石畳が、バラのアーチをくぐって家までまっすぐ伸びている。その両脇を飾るのは、さまざまな緑。背の高いもの、低いもの。緑の鮮やかなもの、穏やかなもの。桃色の花を咲かせたもの、紫のつぼみをつけたもの、白い花弁を散らせているもの。
植物の旺盛な繁殖力をそのまま活かして、少しだけ手助けしたような、そんな緑のあふれた庭は、己が通っていた頃となんら変わらず懐かしい。

手をのばす。扉を叩く。とんとん。とんとん。
ほどなくして、扉が開く。
顔を出したのは、赤いボンネットとおそろいのドレスが良く似合う、白いガチョウ…アンキッツァ先生だ。

「……あら、ヤドランカ？　久しぶりねえ。
あなた、一揆に行っていたのじゃなかったかしら。いつ、戻ってきたの？」

突然の来訪に驚いただろうに、まだ、泣き腫らした顔のままだというのに、先生の声はいつもと変わらぬ穏やかなものだった。
たおやかな細い首がこちらから、隣に立つ彼へと移る。
丸い青い目が、ぱちりとひとつ、瞬くと、大きくドアを開いた。

「あら〜、この人がエンバーさんかしら？
珍しいお客様を連れてきてくださったのねえ。
……寒かったでしょう？　中でゆっくり話しましょうねえ」

それが、限界だった。
せっかく張り詰めさせた気が緩んで、またぼろぼろと涙が零れ落ちた。

　*　*　*

暖炉の前に座らせてもらって、蜂蜜をたっぷり入れたホットミルクを作ってもらって。
何を話したかは覚えていない。きちんと言葉になっていたかどうかも。
ただ、先生に聞かれるまま、他愛ないことばかりを話していたような気がする。
もしかすると、彼が代わりに話をしてくれていたのかもしれないけれど。
ようやく泣き止んだ頃、先生が

「ヤドランカは相変わらず、泣き虫さんね」

と笑ったのが恥ずかしかった。
けれど、くすくすと笑う先生の声に、ふ、と気持ちがやわらかくなる。
ちらりとそちらに視線を向ければ、いたずらっぽい先生の目と視線が合った。

「……あのね、先生〜。
エンバーさんのことで、先生がなにか、ご存知ないか教えていただきたくてお邪魔したの。
あの、エンバーさんは、どなたかと約束をなさっているのだけれど……」

言いよどんで、ちら、と彼を見る。
先生に助力を請うのなら、彼の種族や過去のいきさつを話さないといけない。
ひどく個人的なその事情を、本人ではなく己が口にしてもいいものか、と。
彼に選択を委ねるつもりで、一度唇を閉ざす。

「——そういうわけでね、そんな魔法を使える魔法使いさんのうわさ、先生はご存知ないかしらって〜。
あとそれと、あの……先生の蔵書に、確かおありだったわよね〜、あの本……」

あの本、というのは。
彼が書かれたあの物語だ。
以前、彼が留守になって以後、物語世界はどうなっているのか確かめようと、そう彼と約束した。
自分と同じく言葉を、物語を、詩を、そこに含まれた思いを媒介に魔法を使う先生の家には、驚くほどにたくさんの本がある。
己が初めて彼の物語に触れたのも、この屋敷であったはずだから。

本は記憶のとおりの場所にあった。
己の背より少し高い位置。少し考えて、背伸びする。手をのばす。
そっと、引き抜いた。
ページを開く。傍らの彼の、覗き込もうとする気配に気づく。

「……だ〜め、エンバーさんは、見ちゃだめ、私が読むの〜」

そうやって、彼の目からページを隠してしまったのは、何も意地悪からではない。
恐ろしかったのだ。
もしかして、彼のいない世界に焦れた、置いていかれた登場人物たちが、これ幸いと彼をページの中に引っ張り込むのではないか、と。
そうなってしまったら、もう、この世界では本当に独りぼっちになってしまう。
……気弱な方向に転げてしまいそうになる思考を、涙と一緒に首を振って追い払った。

「——"ヴォーパルの剣（つるぎ）ぞ手に取りて
尾揃（おそろ）しき物探すこと永きに渉れり
憩う傍らにあるはタムタムの樹、
物想いに耽りて足を休めぬ"」

読み上げながら、そっと彼の様子を伺う。
己が命を絶たれるシーン、幾度も繰り返してきた苦しみを描いたシーン。
それに何を思うのか、それより、なにか彼の身に起こりはしないか。
そればかりが心配で。

「"かくて暴（ぼう）なる想いに立ち止まりしその折、
両の眼まなこを炯々（けいけい）と燃やしたるジャバウォック、
そよそよとタルジイの森移ろい抜けて、
怒（ど）めきずりつつもそこに迫り来たらん"——」

パズルのようにと、そう呟いた彼女の言葉に不思議そうに首を傾ぐ。
実際のところは、人間向けのものよりも獣人———
とりわけアヒル向きの服をナチュラルにに作りそうな男だった。

真っ直ぐに向けられた視線と表情に、浅く頷きを返す。
伸ばされた指を瞬き混じりに見遣ってから、同じように小指を出し。
彼女のそれと絡めて、軽く上下に振ってみせた。

脅すような口振りながら、声は笑い混じりだ。

年上に彼女を見てしまった謎の負い目とは裏腹、
はしゃいだ様子を見れば上手く答えられずに誤魔化し笑いを。
“女性は年上に見られると嫌がる”という知識が、
男の中で書き換えられたのは、この後の話だった。


件の店の話を聞けば、そうだろ、と楽しげに肩を揺らし。
今度一緒に飯でも食いに行くかなんて、そう誘ったに違いなかった。

下腹の羽毛を逆立てたまま、敵を見据えている。