【2ヶ月前】

「行ってしまいましたね、父さん」

「……バカ親父が。あげん露骨なパフォーマンスに釣られよってからに」

　父が一揆へ参加して数日が経った。少し静かになった家の中で、私は兄と酒を酌み交わしていた。

「母さんも最近は少し元気が無さそうですし、少し心配です。本当はこんな時に、家を空けたくはないんですけど」

「あんお袋が簡単に参るはずはねえし、そげん心配すんな。親父が帰ってくるまでは、オイが面倒事ばかたしとくけん」

　それより、と兄は透明な酒の入ったグラスを卓袱台に置き、私の方を見た。

「そっちの方こそ大丈夫が？　キャバクラ勤めなんぞ、経験あるんか」

　わずかに兄の心配そうな声色を見てとり、私は苦笑する。

「大丈夫ですよ。私がお酒に強いのはよく知ってるでしょう？　ディードも一緒ですし、ついでに用心棒を兼任してもいいくらいです」

　私は家族に、自身の過去にあったことを未だ話していない。ここに来た時は咄嗟に記憶喪失を装い、その演技を今も続けている。ボロは出していないが、勘の良い父と洞察力に優れた母は、既に勘付いているかもしれない。

「……そうが」

　兄は気づいていないだろう。彼は嘘の吐けない性格で、そういう人は得てして他人の嘘を見破る能力も劣っている。それもあってか、こうやって二人で過ごす時間は気が休まった。他人に嘘を吐く罪悪感は、昔の記憶と共に無くしてしまったらしい。

「これからどうなってしまうんでしょうね、ここ」

　ため息を誤魔化すように、私はグラスを傾け中身を飲み干した。喉への刺激が程よく、心地いい。

「こん村は大丈夫じゃろ。王城ん軍が攻めてきたところで、爺婆共が『土地神様への供物が増えた』ちゅうて喜ぶぐらいじゃ」

「それはそれでまずい気もするんですが。ま、父さんがあちらへ行ったのなら、解決も時間の問題でしょうけれど」

　2つの空のグラスに新しい酒を注ぐ。障子を隔てた外は、電灯もまばらな暗闇だ。

「一つ聞いてもいいですか、兄さん」

　兄の唇がグラスから離れたのを見計らい、私は尋ねる。出稼ぎに出れば、暫くはこちらへ戻って来れない。今生の別れというわけでもないが、その前に一つ確認しておきたいことがあった。

「何じゃ」

「兄さんは、その……私を『抱きたい』と思った事、あります？」

　兄さんが激しくむせた。予想通りの反応に、盆を顔の前で構えてガードする。

「……いきなり何ちゅうこと聞きよるんじゃ、きさんは」

「だって、兄さん今彼女居ない——っていうか、そもそも年齢の近い異性って、今この村に私しか居ませんよね。自分一人で……してるわけでも無さそうですし、ちょっと気になって」

「ちぃと待て。彼女居らんのはええとして、なしてオイの性欲処理の事情まで把握しとるような口ぶりなんじゃ！？」

「部屋の掃除の時に調べさせていただいております。エロ本はもとより、そういう行為をした形跡がいままで一欠片も見られませんでしたから」

「お袋より性質悪いのお……」

　まあ、実際そこまで念入りにチェックしていたわけでもないが、それでも年頃の男性としてそれはどうなのかと疑問に思ってはいた。あるいは同性愛の気でもあるのかと思ったこともあったが、私の知る限りでそういう素振りや気配を感じた事も無い。

「で、どうなんです」

「…………」

　その沈黙が、あまりにも雄弁に私の言葉を肯定していた。尤も、何か喋ればその瞬間にボロが出るのでどのみち同じだったが。

「私は——別に、いいんですけど」

　少し俯き、兄の表情を上目で伺いながら言葉を続ける。

「妹といっても、血が繋がっているわけでは無いですし。それに、もし関係を作るのが面倒なら、恋人とかでなくてもいいんです。一晩だけ、私をただの女として見てもらえれば」

　言葉はすらすらと出た。今までこういう嘘は山程吐いてきたし——あるいは、私の本心に程近い言葉だったからなのかもしれない。

　しかし、兄の返答は素っ気ないものだった。

「……悪いの。オイはすずの事を、妹としてしか見れん」

　その言葉に嘘は無かった。そっか……そっか。

「そう、ですか。ごめんなさい、変な事聞いて」

　グラスと酒瓶を片して立ち上がろうとした私を、兄の手が止めた。

「え」

　左腕を掴まれ、そのまま押し倒される。天井を隠すように、兄の身体が私に覆いかぶさろうとしていた。

「……兄さん」

「妹としてしか見れん。じゃから」

　その目は今まで見たことが無い。奥深くがぎらついて、しかしどこか怯えているようにも見える。

「——じゃから、オイは」

　……ああ、そうか。

「兄さん」

　彼は、かつて妹を亡くしたと言った。その時私は、彼への妹の思いが家族愛とまた違った、少し歪な形に見えた。

「いいですよ」

　私を通して、彼はその彼女を見ているのだろうか。

「妹のままで、いいです」

　それなら、まあ——それでもいい。

「私のこと」

　演じてみせよう。私の安っぽい、嘘吐きの誇りにかけて。

「滅茶苦茶にして下さい、兄さん」

　　　　　　　　　　何も喋らない。それは誰よりも旧きから見守り続けていた。