幾重もの傷を負い猛り狂って吼き駆け来る白虎を、白猫は不愉快そうに、それこそ半ば憎しみを込めて、そのあぎとを踵で蹴り抜いた。質量のある硬質な歯と歯がぶつかり合い、がつんと重い音が響く。白い巨躯は勢いよく跳ね上がり、縦軸方向に半回転して地面へと沈んだ。
　アリスはその無防備に晒された腹を音を立てて踏みつけ、二度ほど体重をかけて押し込む。白虎はその身の逞しさを靴越しに伝えながら悶えていたが、やがて四肢を投げ打って苦しげに呼吸をするのみとなった。
　興奮に見開いた瞳で周囲を見渡せば、打ちのめされてのびている白虎の姿が三つ並んでいた。獣の腹から静かに足をどけ、その場を後にする。


　夢を見た。ひどく嫌な夢。
　地に伏した自分。見物の人だかり。開いた目は閉じることもできず、動かないからだは無様に転がったまま地を舐めるばかりだ。遠くに見知らぬ人々の顔が滲んでいる。視界の端で赤黒い液体が汚いカーペットのように広がっていた。
　これだけの出血ともあれば身体は過剰なまでに痛んでいるはずなのに、全身は痺れているかのようにその感覚すら伝えてこない。彼らはそんな私を見て好き勝手なことを口にする。些細なことだ、生き延びることもできない弱者など捨ておけ、亜人なのだから死んで当然だ——。
　心がささくれ立つ余裕すらない。血液のかわりに虚無が身体に流れ込んでいるかのよう。私はただ無気力にそこでくたばっていた。意識は視界に映るものを受動的に捉え続ける。
　白猫の死体を肴に咲き乱れる話の花を摘みながら、人垣から誰かが抜け出てくる。その人物は息すら乱し、焦りをあらわにしてこちらを見ていた。血溜まりに浮かぶ私を見て顔色を青くしたその人物の姿は


　後ろを振り返ることもせずに森の道を行く。半ば駆け足で辿った道は、まるで意思を持っているかのようにアリスを青空の下へと導いた。翼を持っていたとしてもその上へ行くことを諦めるほど高くに立ち並んだ木々の壁を越えれば、そこは心を奪われてしまうような広大な平原。閉じられた空間では起こることのなかった、鬱屈すらさらっていきそうな風が吹き抜けて、アリスの耳を悪戯っぽくくすぐりながらどこへとでも過ぎ去っていく。
　森に入る以前は遠慮なしに肌を刺したむき出しの太陽は、その暑さは、今やすっかり影を潜めていた。青空を端から控えめに照らす日の光はどこか寂しげですらあり、淡いミルクの混じった空は一面を白煙に覆われた蒸気の国のそれを思い出させた。
　大きくため息をつく。何もかもを放り出して得たものとしては、あるいはこの景色はありがたいものであったのかもしれないが。どこへと出たやらもわからず、ひたすらに遠くを見つめて開けた土地に腰を下ろした。思考は巡らない。考えればそれだけ、焦燥が何もかもを奪い、こぼれ落としていってしまうだろう。
　懐中時計を手に俯くと、後頭部の重さが不愉快だった。森で人狩りやけだものたちを相手どるうちに、いつしか後ろ髪のひと房を束ねていたシュシュを落としてしまっていた。緊張の糸が切れると途端に、忘れかけていた心身の疲れや、いまだ癒えぬ左腕の痛みが、ほんの一握残っていた自由な意識を食いつぶす。脳裏に浮かぶのは夢の最後に見た少女の表情。森を歩いていた時からずっと、こびり付いて離れない。
　座り込んだまま、祈るような姿勢で瞳を閉じる。左腕が熱い。布を巻きつけた部分の脈動がいやにはっきりと感じられる。穴ぼこだらけのこの意識を手放してしまいたい衝動を、懐中時計にすがりつくようにして抑え込む。

「……ご主人様」

　——どうか、ご無事で。祈るように口ずさむ。弱った白猫の喉は、震えた声でそう搾り出すので精一杯だった。

無言で相手を睨み付ける。

手中に爪を隠し、何事もなかったかのように手指を払う。

静かに恭しく一例。