黒い絵本の項もあと僅か。
　オルタンシアと意識が同調する錯覚に戸惑いつつも、ノウァは結末を知るために本を読み進めた。
　
　オルタンシア渾身の呪歌は、魔王の身体を閃光で包み込んで爆発した。
　衝撃に身構えながらオルタンシアが目を凝らすと、魔王は少しだけ蹌踉めいていた様だがすぐに立ち直った。

　「ふふ、良い気付けになったぞ。ゆっくり絶望を味わせてやるつもりじゃったが、気が変わった。手始めに、お前から片付けてやろう。」

　魔王が前に手を振りかざすと、黒い衝撃波がオルタンシアの身体を紙屑のようにふっ飛ばした。
　部屋の壁に直接叩きつけられて、力なく崩れ落ちるオルタンシア。

　「今のは余興じゃぞ？もっとも、儂が本気になったら城ごと崩れてしまうから手加減しておる訳じゃが。」
　
　魔王がオルタンシアの状態を確かめようと近づこうとすると、背後の扉が開いて二人の影が入ってきた。

　「オリフィア、これは一体！？オルタンシア、大丈夫かっ！？」

　ユーシス国王とユリシス王子は、明らかに態度のおかしいオリフィア王女の異変に動揺を隠せないようだった。

　これだけ派手な音がすれば、誰かが気づいてくれるとは思っていたが、オリフィアの身内が来てくれた事は運が良かったかもしれない。
　少しでも魔王の心を揺さぶる事ができれば、反撃の切っ掛けも掴めるかもしれない。
　壁に突っ伏していたオルタンシアは、意識を集中させて顔を上げると国王と王子に向かって叫んだ。
　
　「気をつけて！オリフィア様は悪霊に魂を乗っ取られています！オリフィア様が暴れないように取り押さえて下さい！」

　オルタンシアの言葉に頷いた国王と王子は、オリフィアを囲うようにジリジリと近づいていった。

　「おのれ、悪霊め！今すぐオリフィアの身体から出て行け！お前の企みは何だ！」

　国王の言葉に眉を顰めた魔王は、国王と王子の方へと向き直った。

　「誰が悪霊じゃ！儂を低俗霊如きと一緒にするな！お前らに教えてやる義理はないが、悪霊呼ばわりされたままだと癪じゃからの。儂は魔王じゃ。」

　「魔王？はるか昔に滅ぼされた魔王だというのか！それが何故オリフィアの身体に！？」

　国王は剣を抜いて身構えた。ユリウス王子も様子を察したようだったが、オリフィアに刃を向ける事は気が引けるのか、身構えただけで剣を抜こうとはしなかった。

　「ふふ、この娘の魂と儂の魂の波長がよく馴染むからじゃ。この娘が大人になるまで儂の眷属たちを待機させておった事にも気づかぬとは。平和ぼけした間抜け共よのう。」

　魔王が手をかざすと、黒い礫のようなものが身構えていたユーシス国王をふっ飛ばした。

　「うぐぁああああぁ！」

　暫くのたうち回っていた国王はピタリと動かなくなった後、ゆっくりと立ち上がり再び剣を構えた。

　「魔王様ノ、邪魔ヲスルモノ……殺ス。」

　そのままユリシス王子に襲いかかるユーシス国王を、魔王は腕を組みながら楽しそうに眺めていた。

　「さぁ、親子で殺し合え。儂を愉しませるのじゃ。」　

　「父上！気を確かにもってください！今は争っている場合じゃない！オリフィアが！ぐうっ！」

　魔王の力で暴走した国王の剣をさばききれずに、ユリシス王子は腕を深く斬られて跪いた。
　腕から滴り落ちる血をもう一つの手で押さえている王子の頭上には、今にも首を斬らんとする国王が剣を振りかざして立っていた。

　「お父、さま……やめて。お兄、さま、逃げ、て……」

　魔王の表情は相変わらず不敵な笑みをままだったが、その頬には涙が一筋伝って流れ落ちていたた。

　「……おぉ、オリフィア。目を覚ましてくれたのか。」
　
　オリフィアの声に呼応して、国王の目に光が戻った。
　ユーシス国王は振りかざしていた剣を降ろすと、オリフィアを抱き留めようと両手を広げた。

　「オリフィア……良かった。魔王よ、即刻オリフィアの身体から去れ。私の愛する妹をこれ以上苦しめるな！」

　腕の傷を押さえつつも、オリフィアへと手を伸ばそうとするユリシス王子。

　「な、なんじゃ、この茶番は！？小娘め、抵抗をするか！ええぃ！儂に近寄るなぁ！」

　頬の涙を手で拭った魔王が、振り払うように国王と王子に手をかざすと、黒い衝撃波が二人の身体を容赦なく叩き伏せた。

　「お父、さま……お兄、さ……ま。おるたん、しあ……たす、けて。」

　口から漏れるオリフィアの言葉に魔王は更に激情して、倒れる国王と王子に執拗に攻撃を加え続けた。
　魔王の魂は今、オリフィアの魂に揺さぶられてかなり動揺をしているようだった。
　オリフィアの魂に私の声が届くのならば、一か八かで試してみる魔法がある。
　オルタンシアは力を振り絞って立ち上がると、魔王が気づかないうちに術の詠唱に入った。

　「はぁ、はぁ……どうじゃ。小娘の縋る希望を断ってやったわ。お前を助けてくれる者など、もうおらぬ。大人しく闇に呑まれるが良い。」

　ピクリとも動かない国王と王子の頭を踏みつけて、高らかに笑う魔王。

　「オリフィア様。よく頑張りました、後は私にお任せ下さい。」

　魔王の背後で詠唱を終えたオルタンシアは、両手を掲げながら最後の印を組んだ。
　今まで意識の外にあったオルタンシア存在に気づいた魔王は、振り返ってオルタンシアの方へ衝撃波を放とうと手を振りかざした。

　「お前の術など効かぬと言っておるじゃろう！そんなに死にたいのならば、今すぐ引導を渡してやる！」

　「……ええ、そうね。あなたを倒す術はないけど、オリフィア達を守るすべは今見つかったわ。その為にあなたには魔力の苗床になってもらう！」
　
　オルタンシアが印を組み終わると、辺りの空間がぐにゃりと歪み始めた。

　「なんじゃ、これは！力がっ……抜けてゆくっ、うおおぉお！」
　
　魔王の身体から力が拡散するように、黒い霧となって歪んだ空間へと吸い込まれてゆく。
　歪んだ空間からは、城の外の様子が鏡のように映しだされて、人々が黒の霧に包まれるとその姿を木々や草花へと変えていった。

　「マスモーフ……人を植物に変える魔法よ。闇の眷属が来ても気付かれないように、王国民すべててを森に隠すことにしたの。私一人の力では無理だけど、オリフィアが同意してくれたからあなたの魔力を使うことが出来たわ。魔王様。」

　力が抜けて跪く魔王の傍で、オルタンシアは冷たい笑みを浮かべた。　

　「ふ、ざけ、るなぁあ！許さんぞぉ！オリフィアァァア！オルタンシアァァア！」

　「あら、名前で呼んでくれるの？さようなら、魔王様。この森の魔法が解けた時には、あなたの魔力は枯渇しているからもう会うことも無いでしょうけど。」

　動けない魔王の髪を優しく撫でて、オルタンシアはオリフィア王女に語りかけるように囁いた。

　「ごめんなさい。こんな形でしか、オリフィアを助ける事が出来なくて。この魔法が解けるのが何百年、何千年になろうとも、私はオリフィアに逢うことを誓うわ。この責任を償うために。」

　オルタンシアの声が届いたのか、オリフィア王女はコクリと頷く。
　魔女が見守る中、魔王の魂と共に王女はその姿を少しずつ薔薇へと変えていった。

　「オリフィア……私は、どうなってしまうのだ？オルタンシア。」

　声のする方へ振り向くと、ユリシス王子が悲しげな表情で薔薇に変わってしまった王女の姿を見詰めていた。

　「……ユリシス様には、薔薇になったオリフィア様をずっと護っていただきたく思います。草花ではなく、蝶の姿で。」

　オルタンシアが、ユリシス王子に向けて手をかざすと、おぼろげな光が身体を包みこんだ。

　「そうか……分かった。オリフィアが目覚めるその時まで、私が見守りつづけよう。ありがとう、オルタンシア。」

　ユリシス王子が囁くと、身体を覆っていた光が収束して一匹の蝶へと姿を変えた。
　薔薇に寄り添うように羽ばたく蝶を見届けると、オルタンシアは部屋を出て、城の外へと歩き出した。
　
　城の外には既に闇の眷属が集っていたが、魔王や人々の姿が見えないことにざわめき立っていた。
　闇の眷属の喧騒を掻き分けて、オルタンシアは眷属を率いる黒き城の城主シュヴァルツの前に歩み出た。

　「オルタンシア！これはどういう事だ！お前が覚醒めさせる筈の魔王様も、王国民も何処にも居ないではないか！」

　シュヴァルツが、今にも食って掛かりそうな形相でオルタンシアに詰め寄ると、魔女は意も介さず涼し気な表情で答えた。

　「魔王様の伝言です。儂が力を取り戻すにはまだ歳月がかかる。それまでヴィオレットの民と共に再び眠りにつくことにする。決して、此処には立ち入るな……と、申しておりました。」

　「なん……だと。」

　狼狽して立ち尽くすシュヴァルツを後目に、闇の眷属達は意気消沈しながら散り散りに去っていった。
　
　
　闇の眷属達が去った後、オルタンシアはさらなる結界を準備した。
　迷いの森と呼ばれる結界で、ヴィオレット王国の入り口を次元の狭間に隠した。

　「オリフィアが目覚めるまで、私も転生術で記憶を継承しないといけないわね。」

　転生術を学ぶのはこれからの事だが、闇の眷属の暮らしに戻る気は端から無く、これからは人と共に暮らそうとオルタンシアは思っていた。
　ヴィオレット王国とは違い、他の国でオルタンシアの名は魔族として知れ渡っているため、何か偽名を考えなければならなくなった。
　
　「オルタンシアが、本当に私の妹だったら素敵でしょうね。名前も、私に近い音のオリフィエルっていうのはどう？天使みたいでかわいいと思うのだけど。」

　ふと、オリフィアとの会話を思い出したオルタンシアは、懐かしい声に頬を緩めた。

　「決めた。今日から私の名前は、オリフィエル。オリフィア……あなたを守る者よ。」

　
　　……。
　　……。
　　……ふぅ。

　　絵本を閉じたノウァは、深い息を吐いた。
　　読み終えた絵本は黒い表紙から赤い本へと戻り、オルタンシアの記憶と術はノウァに継承されたようだった。

　「つまり私は、転生の記憶を今まで阻害されていたって事ね。為すべき使命を忘れて、分身に殺されるなんて惨めだこと。」

　魔王であるオリフィアがフィーの魂を狙った事も、オルタンシアへの復讐を兼ねていると考えればすんなり納得がいった。
　既にオリフィエルではない私は、関わらなくても良い話なのかもしれない。
　だが、オリフィアとオルタンシアの関係を知ってしまった以上、見て見ぬふりをする事も出来なかった。

　「そうね、魔王と魔女のお話に私が終止符を打たないといけないわね。」
　
　ノウァはオリフィアの元へ向かうべく準備を整えると、ふとある事を思い出した。
　
　「これから、何らかの形で深雪とも対立する事になるかもしれないわね。一応、断りを入れておこうかしら。」

　翌日。
　ノウァは深雪を呼び出して、別れを告げた後にオリフィアの元へ向かう筈、だった。