「うおおおおおお！すげえええ！」
目の前の景色を見るなり、アールは人がいるのにも構わず声をあげた。隣でチセが暑さとその大きな声に渋い顔をしてるのにも気づかないほど、興奮している様子だった。
声をあげながらアールは服を勢いよく脱ぎ捨て、ズボン一枚になって激しい水音を立てながら、それこそ水をえた魚のように海に駆け寄っていく。

「なあ見ろよチセ！でっかい湖だ！」
「海ですよ、アールさん」
「海？これが？でっけーなあ！きれいだなあ！おおっ見たことない鳥もいる！」
「あれはかもめですね」
「へえ！じゃああのでっかいのなんだ？」
点々と海に浮かぶものを次々とせわしなく指差してはたずねる。
「あれは船です。海に浮かばせて、魚をとったり移動したりするんです。アールさん、海見たことないんですね」
「おう！ないぞ！」
「そんな自信満々に言わなくても……」
チセは肩をすくめながら言った。

真っ青な空と海がいっぱいに広がっている。太陽を反射して光る水面を目を細めて見やれば、水平線が消え、視界が青く染まっていく。
海を見るのは初めてだった。波打ち際に立っては、しばらく波の様子を不思議そうに眺めていた。
そのうちむずむずとした顔で、一歩その足を浸せばその冷たさとくすぐったさに目を輝かせる。そのまま勢いに任せて海へ飛び込んで行くと、背中で見守っていたチセが小さく声をあげた。アールはなかなか上がってこない。
「……あ、アールさん？」
おずおずと声をかけるも、海面は静かに揺れたままだ。どれだけ深く潜ったのか、それともまさか溺れているのか。不安にかられたチセがそっと足を入れた時、足元がぶくぶくと泡を立てて、大きく息を吐きながらアールが飛び出してきた。
驚いて飛び退いたチセの足下で、アールは這うように砂浜で肩を上下させている。
「アールさん大丈夫、ですか？いきなり飛び込んだら危ないですよ！」
「……が…」
「はい？」
「目が……痛い…」
「どこかぶつけたんですか！」
「しみる……この水しょっぺえ…」
目と旅での生傷に海水がきいたのか、アール目を真っ赤にしてチセの前で盛大にむせながらうずくまった。頭上から降ってきたため息は、潮風に乗って静かに消えた。

「まったくもう。少しは落ち着いて行動してくださいよ…」
いつも纏っている青い服ではなく、今は真っ白なワンピースを着ているチセは呆れたように膝を抱えた。普段では見ることのない白く柔らかい手足は、日にさらされてじんわりと汗ばんでいる。
日陰とはいえじりじりと肌を焼く暑さにさすがのアールも堪えていたが、初めて見た海のおかげでそれも少しは気にならずにいれた。
「でもすごかったぜ。いろんな色の魚がいてよ！あれ食えるのかなあ」
「釣り道具とかもありましたから、やってみたらどうです？」
「おお！じゃあ早速行こうぜ！」
その言葉に首をかしげるチセを見て、アールも同じく首をかしげてみせる。
「何してんだよ。行こうぜ」
「えっと、私はちょっと……」
「よっしゃー！待ってろ晩飯！」
アールの高らかな雄叫びに、チセは素っ頓狂な声を上げながらも、渋々と日差しの下へと足をのばした。

「釣れませんね…」
「こういうのはなあチセ。我慢が大事だって兄貴も言ってた」
と大層な口を叩いてみせるが、アールも両足をぶらぶらと揺らして落ち着きがない。本人も退屈なようだ。
波の音と遠くで人のざわめきとが重なり合って聞こえてくる。垂れた釣り糸はぴくりともせず、魚はまだ釣れない。
「アールさん。直接槍持って海に飛び込んだ方が早いんじゃないですかあ…」
暑さで間延びしたチセの声に、アールもさすがに集中の糸が切れたのかうなだれた。
「その手があったか！海の中の方が涼しいしな」
「あの、アールさん。私は向こうで休んでますね」
「ん？チセも泳げばいいのに」
「いえ、結構です」
きっぱりとそう返すと、チセは踵を返して日陰のある場所へと歩いて行った。
「海嫌いなのかなチセ」
アールはその背を見送りながら小さく口をとがらせた。

「チセ！チセ！」
日が傾き始めた頃だろうか。ようやく涼しくなりかけ、汗も引いたところにアールは足取り軽くチセの元へと帰ってきた。
「アールさんどうしたんです……ってずいぶん釣れたんですね」
アールの手にある大量の魚が入った網を見てチセは驚くと、ようやく今日初めて表情を明るくした。
「いや、ほとんど俺が釣ったんじゃないんだけどな！」
「えっと……どういうことです？」
怪訝そうにチセが顔を上げる。
「いやー話すと長いんだけどさ。船に乗ってたじいさんが海にもの落としたからって、潜って拾いにいったんだ。そしたら船乗せてくれてさ。一人じゃ大変そうだから仕事手伝ったらお礼にってこんなに魚くれてよ！ついでにあとでスイカっていう果物も食わせてくれるってさ！初めて船の上で仕事したけど筋がいいって褒められたよ」
「は、はあ…」
しばらくぽかんとしていたが、話を飲み込んだのかチセは我に返ったようにもう一度生返事をした。
「すごいですね。私何もしてないのに申し訳ないですけど…」
「いいんだよ。こういうのは男の仕事だからな。でもさすがにこれは多すぎるな……そういえば向こうにヘクターがいたから分けてやろう！」
「ヘクター様が？」
「うん。なんか面白いことやってたぞ。チセも行くか？」
「あ、はい。そうですね、お魚ありがたくいただきましょう」
砂を払いながら立ち上がったチセに笑ってみせると、二人は夕暮れの浜辺を並んで賑やかな人だかりの中へと向かっていった。

---
Cno.71のアフタヌーンパレードのメッセへと続くのでよかったらどうぞ！

心を決めて飛び出したというのに、アールの思いもよらない反応に虚を突かれ
少年は勢いを失う。失った威勢を無理やり取り戻すように、言葉の怒気を強くする。

『飯』と言う言葉に、無意識に腹を押さえる。
そういえばこの間はいつまともな食事を与えられたか、もう思い出せないくらいだった。

強盗が成功しても、これだけ手間取っていれば
帰っても食事は与えられないだろうという推測も出来た。

少年は少し迷ったがナイフを構えなおし、アールに向ける。
余裕がないのだろう。
アールが怯んでいないにもかかわらず、まだナイフを向けて攻撃の意思を示している。

アールが、どこかへ案内するようなら、大人しく追従するだろう。

…
『そいつにやられたのか？』と言う言葉を聴き、見る見る顔色が青ざめる。

人前で派手にすっ転んだ。 おまけに、買い物袋の中身も転がったらしい。
顔を上げれば、そこには差し伸べてくれた手があって、彼を見上げると、へにゃりと笑った。
申し訳無さそうに手を取り、立ち上がりつつ。

鳥が空を飛ぶこと自体は、珍しくも何とも無いのだけれど。
彼の手を放し、その手で適当に服をはたき、土埃を拭ったりして。
それから、拾ってくれた、差し出されたものについては、

四つに仕切られた箱の中身が透けて見える。
仕切られたスペースにお菓子が四つ、彼が手にした箱そのものも、ひやりと冷たい。

40cmほどの大きさの人形がゆっくりと二足歩行で近づいてくる。

スカートの裾をつまみ一礼。

首を傾げた人形が急に宙へと持ち上げられる。
つまみ上げたのは、身長は170前後、青髪の耳長。

驚いた風に、少年と鷹を交互に見やる。

嬉しそうに微笑む少年、アールと凛々しくも親しみを感じる鷹、オルテ。
双方を見つめて目を細めた。

あまり気分のよくない話だけに、無意識に眉根を寄せる。

話すアールの様子をじっと見て、少し警戒を緩めたらしい。
たたんだ羽から少し力が抜けている。

渡り鳥かと問われれば、ケチェは頷き——

その言葉に重なるように、風が吹く。
夏の海の匂いがする、潮風だ。
姿はないが、おそらくはこの風がケチェのエンブリオなのだろう。

表情そのものには驚いたそぶりはないので、
ケチェ自身は、［アールが口笛を吹いたこと］［それが鳥の声に似てること］を
理解しているようだが……、

本能的ななにかのせいか、羽の方は口笛の音でそわそわしている。

アールの言葉を聞き、チセは肩を落とし僅かに俯いた。

オルティラはエンブリオではなかったのだろうかと、不思議そうな視線を向けた。

新王はこの世界中のネクターを集めていると聞いた。
もちろんそれは本当に世界中という意味ではなく、まだ手の及んでいない場所もあるだろう。
けれど、旅立ちを見送った姉妹の事を思えば、その話に妬みの感情が生まれなかったと言えば、それは嘘であった。

「これくらいの怪我どうってことない」 という、いかにも少年らしい青い強がりに
喉奥に笑いを留めてそう返す。

しかし、次いで相棒のジャックを指して「馴れ馴れしすぎる」と眉を潜めるその様に、
ついに堪えきれずふきだしてしまった。

そう言ってくつくつと笑い、前を行く背中に目を向ける。

からかうような口調。
しかしその笑顔はほんの僅か、かすかな翳りを帯びている。

リンテントポーゼ領での記憶が蘇るのか、チセは男たちの背後に隠れた。

少女はソワソワしている。

少女は双方で交わされるやり取りを見守っている。

そう言って一歩前に進み出た男は、何故だか上着を着ておらず
なまっちろい痩身をそのまま外に晒したままで、少女——カタリナを見据えた。
と、ここでようやく少女を囲むようにして立つ 三つの人影に気付く。

——大男に、魚男に、鳥男。 随分と変わった組み合わせだ。
…否、それよりも問題なのは、

ああ…　と、何かを悟った顔をする。
そう——つまりはきっと、そういうことなのだ。

つまり、この少女は…男の服を剥ぎ取るのが趣味なのだ。

——そうして妙な勘違いをしたまま、男はあなたたちに向かって静かに武器を構えた。