ENo.538 首無しの馬

女「孕み屋というの」

そう名乗った女は、大きく膨れた自分の腹をたいそう優しく撫で回した。
伏せがちの瞳が、女を慈愛に満ちたもののように見せるが、
実際はそういう訳ではないと男は理解していた。
女の顔に相変わらず色はなく、人形のように静かに項垂れているだけだった。

老夫婦の姿はない。女に勧められて少し離れた場所で待機している。
というのも、『出産』が近いらしいが、彼女が言うには、それは一般的にはあまり見れたものではないらしい。

らしいというのは、これもまた女の言葉であり、彼女がこれまでの客の反応からそう判断したというだけだった。
「貴方はどうするの？」と女が問いかけ、男がこれには「問題がないのならば是非」と答えた。
それで現在に至る。

男「あんたが死人を産むというのは本当かね？」

女「ええ」

男「そんな事が本当に可能なのか？死人だぞ？第一どうやって。　物理的に…」

女「…っあ、」

女の身体が小さく弾かれる。
咄嗟に男は己の両手を女の腹に沿わせた。

男「おい」

女「産まれる…」

男「はあ！？いきなりだな！陣痛は？破水は！？」

女「無いの」

それを聞いて男は愕然とする。
確かに（彼等が言うには）産まれてくるのは赤ん坊ではなく、死人だ。
通常の出産とは勝手が違うのだと言われれば、そんなものかと納得しない訳にはいかないのだが、それにしても。

男「―呆れた。大体何故こんな場所で、屋外だぞ！」

女「平気」

男「いやしかし、こんな、衛生的にも―」

女「必要ないの」

女「…ああ、来た」

そこからは散々だった。
『出産』自体は特に問題もなく進んだのだろう、時間も殆ど掛らなかった。
しかし

確かにこれは見ない方がいい

男は上手く回らない頭でそれだけを考えた。
憔悴しきった顔は土の色に染まり、皺の寄った節くれた指はなぞるように男の顔を覆った。
産科医としてこれまで多くの子供を取り上げてきた男でさえも、その光景は耐えられるものではなかった。

男「出産というよりは、スプラッタホラーにスカトロAVと酔っ払いの醜態をかき混ぜたようなもんだったな」

思い出したくもないのだが、男の脳は今まさに見た光景を断片的に再生させる。
男の気分はこれ以上にない程最悪だった。

汚物と共に成人した男女が女の腹から這い出てくる光景は、
二人が互いの手を取り、幸せそうに微笑み合う光景は、
こちらには目もくれず、誰に教えられる訳でもなく、老夫婦の待機する方向へと二人が歩いて行く光景は、
異質を通り越してただただ恐ろしいだけだった。

眩暈や吐き気と格闘して悶絶している男の横で、ぐちゃぐちゃといかにもな水音と形容しがたい異臭が流れてくる。
男は引きつった顔でじっとりと女の背中を睨みつけた。

男「一応聞こうか…あんたは、そこで、先程から、一体、何を、しているのかね」

含むように、念を押すかのように、男はゆっくりと呪いの言葉を吐く。
背後から問いかけられた女は、小さく上下していた肩を止めた。
合わせて先程から鳴り響いていた水音も止まる。当前だが異臭は消える事なくその場に留まったままだった。
すっと顔を挙げ、くるりと機械的に首だけが周り、無機質な目が男のそれを見つめた。

女「胎盤を」

女「食べていたの」

確かに、一部の地域では出産後に胎盤を食べる風習も存在するという事は知っていたし、何より自然界においてはそう珍しい事でもない。
が、実際の所、男にはそのような経験はなかったので、思わず顔を顰めてしまう。

男「生でか？」

女「ええ」

男「汚物まみれのそれを？」

女「ええ」

男「死体が入っていたんだろう？」

女「ええ」

男「それ以上に、あんたが食っているそれは本当に胎盤か？」

女「違うのかしら」

男「さてね」

女「そう」

男「それにしてもがっつくね」

女「そうかしら」

男「そんなにもそれは美味いものなのかね？」

女「さあ」

女「貴方も食べる？」

男「遠慮しておくよ」

そこまで言って男は思考した。
おそらく本能的なものなのだろう。
不味い美味いではきっとない。

＊　　　＊　　　＊

女「念じれば孕むのよ」

男「念じれば？」

こう、と小さく言って、男の手を取り、それを今ではすっかり引っ込んでしまった自分の腹にやんわりと押し付けた。

女「こうやって、私のここに念じるの、『孕め』って　命令するの、『孕め』って」

男「それだけで？」

女「それだけよ」

男「それだけで本当に死人が生き返るのだとしたら、もっと世界には第二の人生とやらを謳歌する死人達で溢れ返っていてもいいのでは？」

女「彼等はそんなに長くは存在できないわ」

男「そうなのかね？」

女「死人だもの」

男「なるほど」

それでも、ほんの僅かな間だけだとしても、彼等は死んでしまった者達に会いたいのだろう。
そうまでして会いたいと願う者が、この女を探し、そして見つけ出すのだ。

男「大体どのくらい生きられるのかね」

女「人によって違うけれど、大体は一日から三日
あとは本来その人が持っていた能力や妊娠の期間などによっても変わってくるみたい」

男「みたい？」

女「彼等を最後まで見届ける事は滅多にないの」

これにも男は納得した。
成程、確かに目的を果たした彼等にはもうここに留まる理由はないのだし、
感動の再会の場に赤の他人がいるのもおかしい。
彼等は彼等で、最後の時間を身内だけでゆっくり過ごしたいものだろう。

男「個人の能力とは身体能力の事かね？」

女「さあ　それもあるでしょうね」

男「それも？」

女「望むものの生命力だったり、覚悟だったり、望まれたものの戦闘技術だったり、才能だったり、それこそ色々ね」

男「妊娠の期間によってとは？」

女「私のお腹の中に長くいればいただけ、持って産まれる能力は高まるし、生きられる時間も長くなるみたい」

男「それでは皆そちらを選ぶだろうに」

女「思いが強ければ強い程、成熟も早いの」

女「でも、思いが強くないと、そもそも私は孕まないのよ」

男「そうかね」

そこで言葉を切った男の視線は薄い女の腹に縫いとめられている。
凝視しているほどではない、ぼんやりと無心のままただ女の腹を眺めていた。

女「あなたは？」

男「うん？」

女「あなたは？」

女が何を言っているのか分からず、男は小さく首をかしげる。
それを見て女はほんの少しだけ両腕を広げて見せた。
同時にほんの少しだけ体の軸をずらした事で、それは男を受け入れるかのように見えた。

女「あなたにもいるんでしょう？会いたい人」

時間が止まった気がした。
記憶が。願望が。声が。言葉が。
止まったと思ったのはほんの一瞬で、すぐにそれらはゆるゆると元の動きを始める。

勿論、男はそんな事を望んでなどいなかった。
そもそも一瞬たりとも考える事すらなかったのだ。
だが女にそう言われた瞬間、ふと無意識に思い描いた顔があった。
もう随分前に見たきりの、亡き妻の顔だった。

男「……妻を？」

思わずそう問いかけてしまった。
混乱と無意識が混じり合った中、ほんの僅かに生まれた感情がおずおずと男の右手を女の腹に沿わせる。
幾ばくの距離もない空気の層から小刻みに震える男の指先へと、女の体温を感じた。

女「ええ、いいわ」

伏せがちの目が慈愛に満ちていると言ったのは誰だったか。

女「私を孕ませて」

男「…………」

男「……やめてくれ」

目を瞑ったまま小さく顔をしかめ、男は静かに立ち上がる。

男「そういうのは、望んでいないんだ」

女「でも会いたいのでしょう？」

男「人情としてはね」

女「なぜ望まないの？」

男「私にだって理性と良心はある、死者を生き返らせるのは良くない事だ」

女「どうして良くないの？」

男「どうしてって、そりゃあ…死者への冒涜と言うのか、いや、しかし…」

男「そもそもあんた、死者の復活とは神のみに許された行為であるわけだ　だから…いや、いや、…うむ」

男「…違うな、すまない、よく分からない　だが、だが！何かが違うのだ」

女「そう」

男「すまない」

女「どうして謝るの？」

男「こんな事を言っておいて何だが、私に君を否定する気はないのだ、信じて欲しい」

女「信じるも何も、あなたがそう言うのならそうなんでしょう？」

男「しかし」

男「………」

男「…あんたは変わってるな」

女「そうかしら」