ENo.1638 リィセ

フリストの街を発って、2度ほど昼夜が過ぎただろうか。

静寂の街、フリスト。

混沌の街、タルタスとくらべれば、いくぶんかは小奇麗で、
喧騒も無く落ち着ける場所ではあった。

しかし…

そこに、私が求めたものは、見当たらなかった。

『前に進もうとする者の、意志』

荒漠の大地にあれども、芽吹こうと水を求め根を張る貪欲さ。
干乾びた沼にあれども、泥土に潜り生き抜こうとする健かさ。

そんな、この荒涼とした世界に喰らいつく意志。

それが、あの街からは感じられなかった。
それが、あの街を包んでいた静寂の正体だった。

フリストでも、アンジニティから抜け出す為の、
世界の果てに関するめぼしい噂はないものかと、嗅ぎ回ってはみた。

しかし、声が聞こえたと思えば、タルタスからやってきた旅人達のものばかり。
旅人同士の立ち話に耳を欹てるも、聞こえてくるのは
『フリストには、世界を隔てる壁の情報は無さそうだ』という落胆の歎きのみ。

街を離れた今、思い返せば無理もない事だったのだ。

あの街の者達にとって、この世界はただ、脅威でしかない。ただ、絶望でしかない。
あの街に残っていた者達は、己の境遇に立ち向かう気概を持ち合わせてはいなかったのだから。

何もかもを諦めてしまっているのだから…　
『己の境遇を変える何か』を新たに知ろうとするはずも、無い。

おそらく、前に進もうとする意志を持っていたものはみな、
世界の果ての噂を聞くや否や早々に街を後にしていたのだろう。

残っていたもの達は、
この地でただ時を過ごし、風化し、朽ちるの待っているだけの者達だったのだ。

私も、もう、あの街に留まる理由はなかった。
あの街は、もはや、抜け殻なのだ。

だが…蔑みの感情は沸かなかった。

掃き溜めのようなこの場所で、血迷ってしまわない方が、難しいのだ。
まともな者ほど、己の身に降りかかった窮境に幻滅し、気が触れてしまうかもしれない。

うずくまり、心を閉ざしていなければ、正気を保っていられなかったのだろう。
この世界の、『否定』という瘴疫に当てられ、気が触れてしまいかねなかったのだろう。

アンジニティに堕ちた誰もが皆、頑強な心を持っている訳ではないのだから。

それに私も、タルタスで燻っていた頃はあのような体たらくだったのだろうからな。

「………。」

思わず、自嘲とも苦笑いともつかない溜息を漏らす。

息を殺して、嵐が過ぎるをただ待っている、渡り鳥のような姿。

この世界は、吹きすさぶ嵐だ。

雷雨の中に飛び出し、無闇にもがいて力尽きるのは、
愚かなことなのかもしれない。

彼らの様に、岩室に閉じ篭り、じっと耐えて時を待つのも、
嵐の中で生きる、ひとつの知恵なのかもしれない。

しかし、ほんものの嵐とは、違うことがある。

『否定された世界』という嵐は、いつまでも過ぎ去ることは無いということだ。

ならば、足掻く以外に道が拓けることは、ないだろう？
風雨の中、羽ばたき翔け進むしか、方法はないのだろう？

この世界で、ただ立ち枯れゆくのを望まないのであれば。
この世界で、ただ渇き干乾びゆくことを拒むのであれば。

世界を渡り、故郷へと帰る為には。

たとえ、勢いを増した向かい風に煽り飛ばされ、藻屑になろうとも。

「………。」

ふと、暗くなり始めた空を見上げる。

暴力と、狂気の真っ只中に居るような、
微笑みなんて忘れてしまいそうな、

この腐って澱んだ世界が、
ひとの、ほんとうの姿を映しているのだとしても。

夢を描いて、叶えようとしても、いいだろう？
奇跡を信じて、手を伸ばしても、いいだろう？

見たい。

擦れた連中は、そんな絵空事をと嗤うだろうか？　それでも私は…

もう一度、故郷の空を、見たい。

薄暗がりの中、煌きだした星達が瞳に入る。

いたい。

胸が、締め付けられる。
それは、そうだろう。当然、痛い。

だがもう、心に嘘は付きたくはないんだ。　約束…したのだからな。

日が落ちた砂浜に、野営の炎がちらちらと灯り始める。
それはまるで、夜の闇に無数に咲く花のようだ。
私と同じ、世界の果てを目指す者達の、意志の燈。

そう。暗闇の中の炎は、強く輝くものだ。
昼の陽の中では、掠れ、散らばり、視えなかった光なのだ。

見たい。

ぐい。と、首を伸ばし、夜空を見回す。
星々は、変わらずに大地を照らし、煌いている。

時には、立ち止まり、膝を付くことだもあるだろう。

でも、私は、この檻を破りたいんだ。
私を繋いでいる鎖を、断ち切りたいんだ。

それは、ただの錯覚かもしれなかった。
ぼやけた記憶が見せた、幻なのかもしれなかった。

ひときわおおきく輝く七つの星。

故郷の空で眺めた、七つの星が、瞳に映る。

痛い。

もう、逃げたりはしない。
目を背けて、引き返したりはしない。

心を、誤魔化したくはない。約束、したのだからな。

見たい。

這い蹲って。
雨に打たれて、泥に塗れても、構うものか。

しっかりと、目を見開いて。進んでやるさ。

いつか、アイツと再び会える時が来るまで。
心は、あるがままで。

心は、ありのままで…本当のままで。

無性に、目の奥が熱くなる。
胸を突き、腹の底から息が溢れる。

獣の遠吠えが、あたりに木霊した。

　　長く、　　長く。