ENo.825 ラナンディア・フェルシュング

　
　せめて一口目だけはと強請ってみれば、僅かな逡巡の末に許可を得た。ィヨッシャー！と、内心で拳を握る。
「美味しいですか？」
「……嬉しいです」
　そうして、いつも通り。お決まりの問いには、お約束の返答が帰ってきた。
　とりあえず肯定と受け取っておく。本当のことなんか本人にしか解らないんだから、勝手に解釈しても構わないものだろう。たぶん。
「うん、僕も嬉しい」
　零れる笑顔を隠そうともせずに、箸を退く。
　……しかしながら薄々気付いていた通り、やはり彼女は何らかの原因で味覚障害を患っているらしい。
　それが先天的なものか後天的なものかはわからないが――否、聞けば答えてくれるのかもしれなかった。
　しかしながら、他人（このひと）のプライベートな面に、僕はどこまで踏み込んでよいのだろう？　慣れない詮索を続けてはいるのだが、中々次の一手を踏み出せずに地団駄するばかりだ。
「――ラナさん？」
「うひゃあっ！？」
　気付けば吐息が掛かりそうな位目の前に少女の顔が大写しになっていて、思わず仰け反ってしまった。
「すすすすすみません。何か御用デショウカ！？」
「いえ。ただ、いい加減飲まないと冷めてしまいますよ」
トレニアさんは元通り腰を下ろすと、水筒の最後の一口を傾けながら促してくれた。僕の手元にはまだ一口二口しか口を付けていないマサラチャイ。
「あ。うん。ありがとう」
水筒を手に包んで、ぬるい一歩手前位の温度をゆっくりと飲み干す。きつ過ぎないスパイスの香りが鼻腔を擽る。
彼女のことだから待っていてくれたに違いないのだけれど、トレニアさんはまた口を開いた。
「どうかしましたか？」
「や、ちょっとした考え事を……あぁ、僕の好みでチャイにしてしまったんですが、構いませんでした？」
「……Ja，問題ありません」
　弾むような僕の問い掛けに、頷いて答えるトレニアさん。
　さらりと流れる髪に、密やかに存在を主張する髪留め。綻ぶ口元は極力控えめに、椅子に深く掛け直す。
「あぁそうだ。バレンタインの時に頂いた飴ですが、漸く食べました。美味しかったです」
　ごちそうさまですと手を合わせれば、ほんのり赤を帯びる頬がふわりと綻ぶ。
「それは何より」
　そうして、当然ながら話題はその先へ移る。
「ラナさんこそ、ホワイトデーは大変だったでしょう」
　さぞ手間がかかったのでは。そんな含みを込めた言葉に、渋い顔を浮かべるほかない。
　確かにホワイトデーはPTMを初めとして基本的な知り合いごとにそれぞれ別のお菓子を用意したため、労力としては相当なものだった。相棒などバレンタインに飽き足らずホワイトデーも当然の如く要求してきやがったのだから、疲労度そのものはざっと数倍に跳ね上がる。
　しかしそれでも、気分的にはバレンタインデーよりずっと楽であると思う。
　多少の手間と懐が痛いのは甘受するとして、借りを精算できる機会をわざわざ設けてくれているのは有難い話ではないだろうか！
　置いといて。
「……良くご存知ですね。誰かから聞きました？」
「ただの一般論です。ホワイトデーは三倍返しと言いますから」
「そ、そうですか……」
「えぇ、お疲れ様でした」
「…………そう言う台詞はせめて皮肉を籠めて言って貰えないかなぁ」
　贅沢で身勝手な溜息が零れる。少女は訝しげに柳眉を寄せる。
「？　どういう意味でしょう」
　小首を傾げた拍子にきらりと銀が輝く。それは、夜色の髪と相まって星のようにも見えた。
「余りにも他意が無くて逆に詰まらないってお話です」
「他意があった方が良かったですか」
「う〜……」
　相変わらず、不思議そうな表情を浮かべたままの少女から目を逸らす。
「トレニアさんにも、お菓子を作りたかったってだけですー」
　言ってから自分で驚いた。花を選んだ事に後悔などしていないはずなのに。
「――、」
　小さな――もしかしなくても呆れたのだろうが――溜息が耳に届いて顔を上げると、背凭れに身体を預ける少女が見えた。目が合えば「なにか？」と言わんばかりに小首を傾けるトレニア・フロイントリヒ嬢。
　氷色の瞳が和らいで、間違いなく素敵な笑顔には違いないのだが、
「……むぅ」　思わず唇を尖らせる僕に、彼女は続けた。
「困った人」
「だって、花が散るまで一週間位でしょう？　そこに想いみたいなものが籠められてるとして、保って精々そんなもんなのかなーって思ったらさ。それに」
「それに？」
「花は枯れるじゃないですか」
　僅かな沈黙。
「……相変わらず、乙女度１００％発言ですね」
「ははははは。お褒めに与り光栄です」
はははははははははは。
「そうですね。……それでも、その心遣いは、とても嬉しいものだと思います」
「……相変わらず、君は、そんな人だよ」
　物質そのものではなく、それを行った人間の心情を重んじる。それが、僕が認識している【トレニア・フロイントリヒ】という人間だった。
　僕の言葉に頷く笑顔は、何故か不思議と心地良い。
　――――時折、少々の意趣が篭められているのも、また、彼女らしいと思うのだ。

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E-no.96　トレニア・フロイントリヒさんをお借りしました。
ありがとうございました！
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