ENo.438 天戸水鏡

「…………ふぅ」
通話の切れた携帯を恨めしく睨んで、二十歳そこそこの男性は深いため息と共にそれを仕舞った。
「ミカ君からかい？」
「……盗み聞きとは関心しませんね、教授」
「おいおい。僕の研究室で勝手に話し出したのはどこの誰だよ」
苦笑して教授と呼ばれた男性――十津川恵滋は、右手でパソコンのキーを打ち続けながら、器用に左手でコーヒーを啜る。
十津川の風貌は四十代半ばの中年、といった恰幅のよい体格だが、短く小ざっぱりと纏めた黒髪が活動的な印象も与えてくる。
事実、研究内容に関して言えば十津川のその情熱は誰もが知るものであり、執念めいた集中力により短期間に幾つもの論文や著書を書き上げ、そのどれもが高い評価と論議を呼ぶ結果となっている。
そんな十津川が”研究室”と呼ぶその場所は、特殊な位置づけにあるこの大学においてさえ最先端と言われている。
他の研究設備と比べてなお高水準な最新技術が盛り込まれており、一見しては用途の判別が付きかねる、複雑な機器の類がいくつも山積している有様だ。
十津川は気にしていないが、それら機材のほとんどは機密事項の塊である。
生徒が迂闊に触れてしまえば罰則は免れない。
彼の生徒たちはそのことを知っているため、余り十津川の研究室には寄り付こうとはしない。
そもそも、現代においてほとんどのやり取りはメールかチャットで済ませられる。わざわざ地雷の埋まっている場所に赴こうとは誰も思わない。
携帯を仕舞った男性――天戸悠羽が、そんな中で十津川の研究室を訪ねていたのはある目的があったからだ。
ログの残るネットワーク上ではなく、アナログな手段で会話をしているのには理由がある。
「まったく。僕との用事をほっぽり出して長電話をしだしてさ。僕だって暇じゃないんだよ。兄妹愛を見せつけるのなら他所でやってほしいよ」
「…あの会話内容を羨ましく思えるようだったら、余程のマゾヒストか、重度のシスターコンプレックスを患っているかのどちらかですよ」
「へえ、両者揃い踏みかよ。ミカ君も大変だな」
鍵盤を叩く手を止め、悠羽へと向き直る。
「そういえば面白いことを言っていたね。君たちの母親が桜を好んでいたとか。それと君たちの父親が庭の木々を全部桜に植え替えただって？　まったく、とんでもないね」
「なにが、ですか」
「いやぁ、君のお父様については僕も色々と知っているけどね。とてもそんなロマンチシズムな性格には思えなかったからさ。
　……アイツは、そうだな。リアリズムの塊みたいな男だったよ。人間の感情なんてとてもじゃないが持ちあわせていない。というより、他の誰かに対してもそうだ。アレが喜怒哀楽を表している場面が僕には想像できない。
　……だからこそ、倒れかかってた天戸をあそこまで興隆できたんだとも思うけどね。普通じゃあとても無理な傾きだったし」
「……そこまで理解しているんだったら。
　余計な口など挟まないで頂けますか、先生。
　つまらないいつもの駄弁りをする度に、優秀なペットが数匹行方知れずになっていては先生も心配が尽きないでしょう」
「もちろんさ。君みたいに優秀な子が去ってしまうのは相当な痛手だよ。はは。今じゃこうやって直でからかえるのは君くらいになってしまったものねぇ。まったく、寂しい限りだよ」
そういって口の端を歪め、愉快そうに嗤う。
「よし、それじゃあ本来の話に戻ろうか。さっきも言ったけど、ここ最近は忙しくてね」
「余計な話を最初に切り出したのは先生ですけどね」
「ふふ、軽いスキンシップだよ、スキンシップ。教え子にセクハラできるのは教師だけの特権だからさ。
　さてそれじゃあ、まずはこれから見て貰おうか。ここ数カ月間で起きた神隠しの件数だよ。
　……もちろん、公表されてる分だけじゃなく、ね」