ENo.3241 定桐右水

私は信心深い性質の者ではないが、今、この瞬間には神という存在に対して「何故か？」と問いかけたい。
これは明らかに神の落ち度とも言える状況ではないか。
この場に先生こと、あの名探偵“六命子規”が居たならば、私は「ほら来たぞ！また何時もの難事件だ！」と呟きながらも、どこか安心した心持で居ただろう。
名探偵が居る状況では事件とは起こるべくして起きるものであるからして、私自身も常に何が起きても良い様に覚悟しているからだ。

名探偵という存在が常に身近に居る私が経験論として学んだことは、命が惜しい常人は名探偵を見たら逃げろという真理である。
彼らが行く先々ではまるで待ち構えていたかのように殺人事件、もしくは奇怪極まりない難事件が発生するからだ。
それは些か使い古された表現ではあるが運命のようなものである。もしくは世界の法則とでも言うべきだろうか。

あの高名な哲学者ニュートソは木から林檎が落ちるところを見て、全ての生物は何時か子が親離れをしなくてはならない運命を背負って産まれると言う論、即ち“万子自立の法則”を打ち立て学会で大きな議論を巻き起こしたが、機があれば私も名探偵の周りでは事件が起こりやすい“死神実在説”を発表したいと思っている。
きっと死神の大部分は女性で名探偵が好きなのだろう。そう考えてみると世に女性の名探偵が数少ないのも頷けるというものだ。

その点、名探偵の助手という存在は安心できるものである。
今まで私は先生から休暇を貰って旅行に度々出ているが事件に出くわした事は一度も無い。
今回の旅行もその通りで、旅中は平穏そのものであった。
しかし、どうした事か最後の最後、帰路の部分で神は手違いを起こしたようだ。

私とミルク婦人が脚を運んだ甲板では男性が血塗れでうつ伏せに倒れていた。

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「落ち着いて下さい、落ち着いて下さい。私が此処に居ますから。だから。」

私は自分自身でも説得力が無いな、と思うほど動揺した口調でミルク婦人を落ち着かせようと努力した。
慌てるな。慌てるな。私はこんなシーンには慣れている筈じゃないか。
そう自分自身に言い聞かせるが身体は無性に震えてしまう。

「し、しかし、しかし、しかし…。」

「だ、大丈夫です。名探偵の助手として何十件もの難事件に遭遇して来たプロフェッショナルです。私は。」

『解決して来た』訳ではないのでよく考えると心強くとも何とも無いのだが、そう言うと私はぎゅっとミルク婦人の手を握り締めた。
先生がこういう場面で女性によくやるパフォーマンスだが、成る程効果はあるらしい。
漸く安心したのかミルク婦人の震えは大分収まってきた。
私は握りしめていた手を離すと、目前で血を流し倒れている男に慎重に近づいた。

「タマネギ・ダイコン氏…か。」

男の顔を覗き込むと、私はすぐに男が誰なのか判断することが出来た。
被害者はあの『お洒落髭クラブ名誉会員』を謳っていたタマネギ・ダイコン氏であった。
彼のトレードマークとも言うべき立派な髭は死後も彼の名刺代わりとして役目を果たしてくれたのだ。
立派な髭である。

タマネギ・ダイコン氏の背中には深々と短剣が突き刺さっていた。
随分と深くさされている。どうやらこの傷が致命傷になったようだ。

「つまり…これは殺人で、容疑者は船の中にいる者、か。」

私は唸った。内心ではこれが事故死であることを期待していたのだがこの状況では殺人事件と見るべきであろう。
そして間違いなく、犯人は船の中にいる。
まさか誰かが大海洋を走る船に突如乗り込み、タマネギ・ダイコン氏だけを殺害する事はあるまい。

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船内のホールに集まった人々は私の話を聞いて皆、一様に驚愕の表情を浮かべた。
今、この場には船の操舵に必要な最小限の船員を除いた人々が集まっている。

船長：田中フェスタロッサ
シェフ：山田サングラス
船員A：近藤ケムマキ
船員B：青木ケバブ
旅客A：サヤ・エンドウ氏
旅客B：ツクダニ・イナゴ氏
旅客C：サボテン・ダー氏
旅客D：バター婦人
旅客E：ミルク婦人
旅客F：アイス婦人

私はタマネギ・ダイコン氏が船の甲板で殺されていた状況を説明しながら、そっと一堂の表情を窺った。
…毎度思うことなのだが、殺人事件を起こすような輩は演技が非常に上手である。
なにせ私のような助手だけではなく、名探偵である六命でさえも、最初の事件発生直後に犯人を断定することは出来ないからだ。
きっと犯人は事前に殺人計画を練るだけではなく、用意周到に「信じられない…誰が犯人なんだ？」という表情をする演技の練習も重ねているのだろう。
何とも理解に苦しむ話である。その努力をもっと前向きに使えないのだろうか？

さて、私自身は名探偵でもないただの助手であるからして、ここから名推理をして犯人を挙げるのは至極困難なことに思える。
そもそも今回の船旅は残る半日ほどで目的地に到着するのだ。
短い時間だけに船中での連続殺人に繋がる可能性が低いだろうというのは幸いだが、実に気が重い。

ここで犯人を挙げられずに先生の下に戻れば、果たして私は先生からどんな嫌味を言われるのだろうか。
いや、もしかすると先生が事務所の椅子に座りながら私の話を聴き、ずばりと犯人を当てるという運命なのかもしれない。
うん。ここまで思いついて多分、そんな風になるのだろうなというヒシヒシと予感がある。

…しかして、このまま何もしない訳にはゆかないだろう。
3日間の船中では私は名探偵の助手という肩書きで過ごしてきた。
決して名探偵本人ではないのだが、船客にしてみれば私に事件解決を期待しているのがよく分る。

そして、私自身にも…。
助手として数十の事件を見てきた経験を活かして、偶には大活躍をしたいという野心が首をもたげてきたのだ。
きっとそれは、後に誰かがこの事件を題材に小説を書いたところで、名探偵“六命子規”シリーズの番外編のような形で、幾つかの短編と共に纏められる僅かな頁の間の事だろうとしても。

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　パタン。本を閉じた。
この『名探偵と111人の刺客』シリーズを頭から数えて20冊目に当たる『霧中宣誓』は短編が幾つか纏められた作品だ。
そしてその中の最後の短編では、どうやら何時もは徹底的な道化役を演じている助手が主人公として活躍？する話らしい。
ふーむ…正直、意外だ。今までのシリーズを読み返しても、常に“助手”としか紹介されておらず、正式な名前すら描かれていない、そんな助手を作者はなぜ主人公に抜擢したのだろうか。
単に短編ネタに困っただけなのかもしれないが、今までの作者の態度からするとあまりにも唐突だ。
現にこの『霧中宣誓』に収録された他の作品は全て“六命子規”を何時も通り主人公にしている。
私はこの唐突な展開を面白くも感じながら、少々戸惑いを感じた。もしかしたら、この作品が書かれた当時、作者の心境に何か変化があったのかもしれないな。
ふとそんな詰まらない物語外の事情を考えてしまった。

　心境の変化は誰にも訪れる。作者が望めば作中の人物にも。
もしかしたら、それは作者自身の本音であり、その無意識の反映なのかもしれないが。
どちらにせよ、助手が初めて抱いた野心、それは今の安定した立ち位置より、前へ踏み出す為の大きな一歩である。
名前も無く個性も薄かった助手を私は始めて応援したくなったのである。