ENo.2332 セロ＝テスタメント

それは家ほどもある巨大な猪だった。
　見事な牙が天を突き、額から巨大な尖角を生やした、まさしく化け物だ。
　足を止め、ギロリと睨む。
　天を仰ぎ、巨大な猪が吠えた。
　遠吠えが物理的な衝撃となって押し寄せる。
　顔の前に手を上げ衝撃波に耐えるヨシュアと、その背に隠れるマリーエル。
　一番距離が近かったスカーレット・バタフライが真っ先に標的にされた。
　引きつった顔で後ずさる。
「……ちょ、ちょっとどういうことよっエリナっ、ほら！テイム！テイム！」
　木陰で待機していたのか、呆然と見上げている美少女に向かってスカーレット・バタフライは声を張り上げた。
「え、わ、私ですかっ！？」
　予定ではここで宝石を渡されて、別経路から逃げるはずだった。
　スカーレットバタフライに扮したクレアが持ち主を引きつけ、囮を買って出る。そういう話だった。
　回収された宝石はその後持ち主の、帝都のアークライト様に返すという約束で。
「ビーストテイマーでしょ！？」
「こんなでっかいの無理です！」
　二人で後ずさる。
　鼻息荒く、大地を何度も蹴りつける様は、何ものを粉砕する巨大な意志の塊に他ならない。
「ヨシュア、マリーエルを連れて下がれ」
「で、でも」
「いいから下がれ、ここじゃ怪我する。俺に仕事させない気か？」
「は、はい」
　言ってヨシュアは二人で逃げようとマリーエルへと手を伸ばす。
「マリーエル、ヨシュアを盾にしつつ魔法で援護だ」
「はい」
「え、俺盾ですか？」
　急ブレーキをかけて突っ込むヨシュアは置いておいて、セロは前方の二人の美女に向かって声を張り上げた。
「おい、紅いの！」
「何よっ！」
「あんたも連れも、このままだと命が危ないぞ？手伝えっ」
「分かってるわよ、そんなのっ」
「おぃちっこいのっ」
「ちっこいのじゃないやぃ！」
「いいか、俺が突撃したらさっきのやつを横からぶちかませ、いいな？」
「命令しないでよ」
「尻叩くぞ？」
「……はい」
　逃げるタイミングを見計らってじりじりと後ずさるクレアとエリナ。
　一瞬の降着状態。そして、張り詰めた空気をたたき壊して、巨大猪が地を蹴った。
　反転、全速力で逃げるクレアとエリナ。
　目尻に涙を浮かべてエリナは走り、引きつった笑みを浮かべてクレアが詠唱する。
「おぉぉぉぉっ！」
　一足飛びに近づいたセロは、大きく掲げた大剣を横殴りに牙へと叩きつける。
　がくん、と猪の顔が揺れ、その場でたたらをふんだ。
　しかしすぐさま、牙をヤリのように尽きだして、セロへと襲いかかる。
「硬いなっ」
　毒づき、突進してくる猪の牙を再び叩き、ひるんだところを鼻を蹴って頭上に抜ける。
　角で突き刺そうと頭を振り上げるのを、大剣の腹で受けて滑らすと、角を掴んでぶら下がった。
「闇よっ！」
　そこに帯電した黒い霧が生じ、生き物のように巨大猪へと襲いかかった。
　小型の雷を起こして対象を黒焦げにする呪文は、しかし、巨大猪の体表で綺麗に弾かれる。
「魔法が効かないですってぇ！？」
「いっけぇっ！」
　轟音。横から叩きつける衝撃に巨大猪の体が持ち上がった。
　爆発。
　焦げた臭いと煙とを風が運んでいく。
　爆煙の先には脇腹に多少焦げた後を残した巨大猪が、憤怒の瞳を向ける。
「あ、あれれ」
「くそっ」
　角から手を離して額を斬りつけるセロを、勢いを増した牙が襲う。
　辛うじて大剣で防いだセロは、そのまま勢いよく横へと弾き飛ばされた。
　空中で身を捻り、両足で着地したセロは、大地に長々と線をを引きながら盛大に後退する。
「セロさんっ！」
　マリーエルが魔法を発動させる。放たれた光の槍がセロの脇を抜けて巨大猪の瞳の辺りへと命中する。
　光槍が瞳を焼き切り、絶叫が木霊した。
　視界を奪われて怒り狂った巨大猪は、周囲へ見境なしに牙を振り回すと、腰を抜かして倒れていたエリナの方へと急に突撃を開始した。
　顔面蒼白になってクレアが駆ける。
「エリナっ！」
　巨大剣が走る。
　エリナを踏みつけようとした巨大猪の首筋へと矢の様に剣を突き立てたセロは、そのまま強引に切り裂き、牙を全力で叩く。衝撃で巨大猪が膝をついてよろける。
「じっとしてろよ、口は開けるな」
　エリナを担いで飛び退くセロ。
　すかさず、魔法の槍を傷口へと投げつけながら、クレアが併走する。
「礼は言わないわよっ」
　血と唾液が混ざった体液を垂らしながら、鼻息荒く怒りの瞳を向けてくる巨大猪は、みさかいなしに巨木を薙ぎ倒し、今度はマリーエルへと突撃を開始した。
「こっちっ！」
　とっさにヨシュアの差し伸べた手を取って突撃を交わせば、そのまま側面に回り込むように走り込む。
「ヨシュアさん逃げるの上手ですっ」
「褒められてるのかなっ！」
　マリーエルの手を引き、茂み、巨木の陰、岩と、あらゆる障害物を使って逃走するヨシュア。
　バキバキと木々が薙ぎ倒され、地響きを伴って駆け抜けていく巨大猪。
　猪突猛進とばかりに、突撃を繰り返す巨大猪は、突撃を避けては転身する二人を執拗に追いかける。
「どうしよっかなっ、そろそろ隠れるものが無くなってきたんだけどっ」
「きますっ、きますっ、きますっ！」
「分かってますってばっ！」
「こっちですっ」
　今度はマリーエルに手を引かれて走るヨシュア。
　そこにセロが再び大剣を突き刺して巨大猪を止めた。
「えぇぃっ、らちがあかんっ」
　弱った巨大猪の、それでも膨大なパワーに軽々と弾かれるセロに向かって、アデルが叫んだ。
「うん？背中？背中狙ったらいいと思う！」
　それを耳にした瞬間、すぐにセロはがなり立てた。
「ヨシュアっ、背中だ！木に登れっ！」
「本気ですか！？本気で今の言葉信じるんですか！？」
「本気と書いてマジと読むっ、生き残りたかったらつべこべ言わずに登れっ」
「世代差感じます！」
「ばかやろぅ、俺はまだお兄さんだっ！」
　ヨシュアが器用に木に登り出す。
「ツインテール！」
　クレアがマリーエルの隣に立って声を掛けた。
「マリーエルですっ！」
　持っていた懐中時計を放って返すクレアに、一瞬キョトンとした視線で見返すマリーエル。
「合わせなさいっ」
「……むっ」
　クレアの始めた詠唱に合わせて呪文を重ねるマリーエル。
　言葉を使い、思念で紡ぐ構成をより明確に形有る物に変えていく。
　溢れ出た魔力が魔法陣を形作り、増幅し、二人がそれぞれ相互に補完し合って陣を巨大化させていく。
　それは氷結の魔法陣。
　魔法を表すかのように結晶のような幾何学模様が広がっていく。
　本来光学系の魔法が得意な属性のマリーエルが、驚いてクレアを見る。
　まるで魔法を組み上げる手ほどきを受けているように、頭の中に構成が流れ込んでくる。
　氷結の属性を帯びた魔力を練り上げて、マリーエルは魔法石へと力を込めた。
「さぁ、とっておきを食らわせてあげるわっ」
　クレアが両手を突き出し、マリーエルが続く。
『氷結地獄（ニブルヘイム）！』
　絶対零度の冷気が巨大猪の足下を瞬時に凍てつかせる。
　使える者も限られる極寒の魔方が魔力を根こそぎ奪っていく感覚に、マリーエルは顔をしかめた。必死になって魔法を維持する。
　氷った大地から何十本もの蔓が伸び、意志有るかのように巨大猪を絡め取っていく。
　暴れる巨大猪は、絡みつく氷りをへし折りながら、氷りに縫い止められた足を強引に引き抜こうとする。
　しかし折れても折れても枝分かれして再び絡みつく氷の魔手に、ついに巨大猪の動きは鈍って止まる。
　だめ押しとばかりにセロが巨大猪の脳天を叩きつけるように飛び斬りを浴びせた。
　ドスンと猪の顎が大地に叩きつけられたその時。
「今だっヨシュアっ！」
　上から見れば一目瞭然。何故か背中の真ん中辺りだけ、体表の色が違う。
　魔法すら弾く鋼の体毛ではなく、白く透き通るように色を失った部分が見えた。
「な、む、さ、んっ！」
　少し距離はあった。
　だがやれる気がした。
　軽い興奮状態の中、全力で飛び、全体重を手に持ったショートソードに預ける。
「うあぁぁぁぁぁぁっ！」
　ズトンっ、とヨシュアのショートソードが背中に突き刺さる。
　断末魔の叫び声か、今までに無い絶叫を上げて巨大猪は大地へと倒れ込んだ。
「まだまだっ連射っ！」
　クレアとマリーエルが魔法の槍を作り出し、へたりこんで呆然としてるヨシュアの眼前、ショートソードの突き刺さった場所へと投げつけた。
「わっふぅ」
　飛び退くヨシュア。
　のけぞる巨大猪。
　それで、本当に最後だった。