ENo.1093 蔵鉄鎮馬

小さな村の宿屋の２階。
のどかな風景と、村の中央広場が見える窓辺。
余暇を過ごすには持って来いの場所だろうか。
……窓から見える風景にカマドウマの群れさえ居なければ、の話である。

「あいたたた……」

灰皿で灰を落とした煙草を咥え直そうと右腕を上げたが、
件のカマドウマに引き摺られた右肩と上腕が痛む。
肩の脱臼は免れたが、この痛み方は筋をやられているようだ。

「はぁ…」

煙草を吸って、吐いて、数回に一度溜息を添えて……
あまりの自分の情けなさに溜息しか出ない。
広場でカマドウマに放り投げられて、朦朧とした状態でこの宿に運び込まれた。
鎮紅に軽く手当てを受けて寝かされて一晩。
朝起きてみても、変わらず広場でカマドウマ達が蠢いている。

ただでさえ精神的に参った所に、朝食を持って来てくれた宿のおばちゃんの、
「誰かなんとかしてくれないかねぇ」と言う呟きが、更に自分の不甲斐なさを際立たせた。
そこから部屋のベッドに腰掛けてこの調子である。

先程まで、同じ部屋で鎮紅が窓から見える広場のカマドウマ達を
メガホンを望遠鏡の様にして眺めながら「うぇぇ」とか呻いていたが、
兄の予想以上の凹みっぷりに気を遣ってかアップルちゃんを連れて出て行った。

「あぁぁ……」

全ては自分の力量の過信と、状況認識の甘さ…結局はそれだけである。
細い煙を立ち昇らせる煙草を眺めるばかり。
ジリジリと灰に変わっていく巻紙に焦点をなんとなく合わせてボーっと……

「お、とととっ」

灰に変わる様を眺めていたのはいいが、放って置きすぎて灰がかなり長くなっていた。
慌てつつも、ゆっくり出来るだけ静かに煙草を上に向け…水平に灰皿まで腕を持っていく。

「うわっ…」

極力水平を保とうと、痛めた腕に変に力を入れながら動かした為か、
灰皿まで数十センチのところで筋が痛み、ピクリと腕が痙攣して灰は敢え無く落下。
音も立てずに黒いズボンの上に崩れ落ちた。

「あぁあ」

床に落とさないよう、灰皿を持ってきて崩れて拡がった灰を払ってみるが、
擦った後に白い汚れがそのまま残る…なかなか落ちないのだ。

…何をやっているのだろう。

手に持ったまま、再び同じ過ちを繰り返しそうな火先を灰皿に灰ごと押し付け、
先をくの字に折り曲げるようにグリグリとグリグリと…
悔しさと情けなさを押し潰すように、残った茶色の葉がはみ出るほどに捻り潰した。

「……いい加減にしよう」

押し付け過ぎて灰で黒くなった指先を、擦り合わせて汚れを落としながら立ち上がる。
何も出来ずに転がされた事は悔しい…悔しいが、
これ以上悔やんだ所で広場のカマドウマが消えてくれる訳ではないのだ。
それに依頼された食料を届けなくてはならない…既に一日無駄に過ごしている。
アレを何とかする手立てを考えなければ、と窓の向こうのカマドウマを忌々しげに睨む…。

再戦するにしても、確実に戦う事になるのは自分一人だろう。
昨日の失敗はあの長い触角を考えずにワイヤーを放ったこと……。
あのゲショゲショ動く長い触角はワイヤーで切断するのは自分の腕ではまず無理。
どんな形であれ、触覚にワイヤーが触れてしまったら跳躍と同時にまた引き摺られる。

どうしたものかと悩みながらカマドウマを眺めていたが、
気分がげんなりしてきたので窓に背を向けてベッドの端に座り直した。
両肘を膝に乗せ、頭を抱えて考え込む……
しかし名案が思い浮かぶ訳でもないが、それでもやるしかない。

いつか父親が言っていた。
“一度受けた依頼は客のキャンセルがない限り遂行する、出来ない依頼は受けるな”と。

「結構難しいもんだな、親父……」

父親に貰ったライターを眺めながらそう呟いた。

◆　　◆　　◆

暇を持て余した探偵事務所のデスクでは、解体が行われようとしていた。

「よいしょ」

椅子から身体を傾けてキャビネを開くのにも掛け声が要る。
左手で倒れないように机の端を持ちながら、右手でキャビネの下段を引き開け、
中からゴソゴソとオイルとフリントケースを取り出した。

「っよ」

キャビネの引き出しを戻し、勢いをつけて身体を起こす。
机の上にオイルとフリントケースを置くと嬉しそうな顔で、机上のライターに向かった。
解体される対象はイムコのオイルライター。
その構造のシンプルさと使い易さで長年愛用している相棒だ。
と、言っても本体の安さも相まって頻繁に代替わりはしている。

もう少し若い頃はライターの収集に凝っていて、様々なオイルライターを集めた物だが、
今はデスク後ろの自分専用倉庫に、全てケース仕舞われ眠っている。
ロンソン、マーベラス、コリブリ、デューク、ペンギン、ダンヒル、ダグラス、トーレンス等々…
興味がなくなった訳ではない…油断していると解体されるのだ。

……娘に。

小さい頃から工作が好きで、１０歳位の時に工具セットをプレゼントしたのだが、
そこからが個人的に悪夢の始まりであった。
最初は身近な機械の解体…目覚まし時計や自分の玩具をバラして遊んでいたが、
ふと気付くとレンジ等の家電や事務所の外付けHDDまで分解されていたのである。
それくらいは叱りながらも苦笑していられたが、ある日……ライターに魔の手が及んだ。

流石に銃器や仕事道具は倉庫に厳重保管だが、ライター達は引き出しの中に全部入れてあった。
たまにはコレクションの手入れでも、と引き出しを開けたらそこに悪夢が詰まっていたのだ…。
当時苦労して手に入れた、オルゴールギミック付きのライターが解体されていたのには声も出なかった。
あの時ばかりは激怒した覚えがある……。

それ以来ライターも倉庫に厳重保管となり、値段も安く、構造もシンプルで使い易いイムコ一筋となった。
そんな思い出に苦笑しつつ机上のイムコを手に取り、解体とメンテナンスを始めだす。

コピー用紙を持って前を通った妻が「また？」と言った顔で視線をくれたが、それすら気づかない。
このメンテナンスの時間が幸せなのである。

まずは下部からオイルタンクを引き抜き、底蓋を外す。
中の綿をピンセットで一度全部取り出して、ウィッグの残り具合を確認。
随分先が黒ずんで来たのでウィッグの調整の為だ。
中のウィッグの長さはまだ十分、純正の物は短い為ZIPPO用の物に変えている。
残長確認し、ペンチで表からゆっくりウィッグを引っ張り、白い部分が適切な長さになるくらいまで…
力加減を間違うと、一気にズルッと抜けてしまうので慎重に。
黒ずんだ部分と白い真新しい部分が均等な長さになったところでカットし完了。

指で切ったウィッグの先を適度に均して、抜いた綿をタンク内に戻していく。
タンク上部、ウィッグ周りの煤けて黒ずんだ汚れをコットンで綺麗にふき取り、
逆さにしてゆっくりとオイルを注いだ。

「残り少ないか…」

オイル缶の中身が少ない…今度出た時にタバコと一緒に買おう、と
頭の中でメモしていると、オイルがウィッグから滴ってズボンに垂れていた。

「おっとっと」

考え事をしながらするもんじゃないな、と苦笑しつつ垂れたオイルを拭き、
少し入れ過ぎたタンクをひっくり返し底蓋を閉め直して机に立てておく。

今度は本体だ。
本体下部のバネ式のボタンを押さえ込みながら本体カバーをスライドさせ
１８０度上部へと展開させる…この構造が一番好みだ。
押さえ込んでいたボタンから指を離し、今度はそのボタンを摘んで下方へ引く。
このボタンはバネ式で本体のカバーの押さえになっているだけではなく、
フリントを押さえる役目もしている大事な部分だ。

バネを下方に引いて、中のスリットに出てきた磨耗したフリントを出して捨て、
新しい物を入れる前にフリントホイール周りをブラシで掃除。
綺麗になったところで新しいフリントを入れ、引いたボタンを今度は押し込みながら
１８０度開いていたカバーを戻し、ボタンにしっかりと引っ掛かった所で指を離した。
机の上に立てて置いたオイルタンクにそのまま被せる様に本体をはめ込み……完成である。

この間僅かに５分もないくらいだが、この時間は至福だ。

カシャ

動作確認の為に、蓋をスライドさせて着火。
真新しいフリントで少々動きは硬いが、飛び散った火花は白いウィッグに火を灯した。
揺れる炎の大きさと高さを確認して満足そうに蓋を閉める。

◆　　◆　　◆

父親から貰ったイムコのライターを眺めながら、またボーっとしていた。
いけないけない、と首を振りながらライターを煙草の箱の上に戻す。

父親なら、などと考えても仕方がない。
父親は父親、自分は自分……そしてココに居るのは自分一人なのである。

「やる、しかないか」

ベッドの脇に掛けてあったコートを手に取る。
一緒に掛けてあったショルダーホルスターを先に装着。
この銃を使うにはまだ抵抗がある……が、自分の持てる武器で火力が最も高いのも事実だ。
迷いを振り切れない内は銃を抜いたところで何の役に立つのであろうか。
ホルスターの上から銃を撫でて苦笑する。

コートを羽織り、順番に装備の点検。
コートを捲って裏地に並んだ３列のホルダーに仕舞われた投針。
ホルダーは４８本分有るが、投げるという特性上回収できないこともある。
空いてるホルダーは４つ、まだ４４本なら大丈夫だ。

今度は右袖口に手を入れ、リールのロックを外してワイヤーを引き出す。
結構な勢いで引っ張られたが、リールの機構及びワイヤーに損傷はない。
父親は最も得意としていたが、自分の腕ではまだ広範囲で扱いきれない。
溜息を吐きながらリールを巻き戻してワイヤーを収納。

次に腰周りのポーチに収納された物。
鎮紅と共同開発した特性かんしゃく玉、そう言えばまだ実戦使用していないが、
実験時の威力は折り紙付であった…まだ４個だが、使えるかもしれない。

「ただいまー…鎮馬、どう？」

そこで鎮紅がドアを開け、おずおずと伺うように覗き込む。
入るタイミングを伺っていたのだろうか…
妹に気を遣わせた自分を心の中で叱咤し、気持ちを奮い起こす。

「あぁ、もう大丈夫……リベンジ行くぜ？」

そう返しながら鎮紅の頭にぽん、と手を置いて部屋を後にした。