二日目、五十日目の日記と繋がっています





夜虫を声を背に、猟銃を携えた白髪まじりの老人が黙々と歩いている。
明るい月光は、老人の枯れた顔を蒼白に照らしていた。

ほんの二月程前の事である、老人の娘が殺された、
刀で頭をかち割られ、頭の中を穿り返されて。

その夫も殺された、刀で首を一刀の元に落とされたのだ。

十にも満たない幼い孫すら殺された。
その幼い身体に陰湿に、執拗に刻まれた傷が、
その子が生き地獄を味わい、残酷な程緩やかに死んでいったのだと冷たく物語っていた。

どれほどの恐怖と、どれほどの苦しみをその身に受けて死んでいったのだろう。
それは老人の長い生の中で得た経験と知識をもってしても到底想像出来るものではなかった。

気づけば老人の萎びた目尻から、ぽつりぽつりと涙が零れていた。
老人はそれを荒々しく手で拭う、まだ全て終わった訳ではないのだ。

犯人の名は人伝てに聞かされた、やったのは"狂骨"だと言う、
王の配下の中でも質の悪い事で知られる"人斬り狂骨"が、異形となって殺戮を繰り返しているのだと。

その時に老人の中に黒い感情が芽生えた、必ず仇を討ってやると、必ず殺してやると、
必ず娘達の"怨み"を晴らしてやるのだと。

そして月日が経ち、老人は漸く仇の片割れを討った。

"人斬り狂骨"　人が噂するその恐ろしい異形を、裏で操る黒い光のエンブリオ、
人斬りが失敗に終わり、這う這うの体で無様に逃げ出したそのエンブリオをこの手の銃で討ち果したのだ。

だがまだもう一片が残っている、"人斬り狂骨" その物だ。

農民達の話では、動かなくなった狂骨の遺骨はその仲間達の手によって農地の外れに埋葬されたと言う。

この話を聞いた時、老人は頭の血管がはち切れんばかりの激情に襲われた。

娘家族は無残に殺され捨て置かれたと言うのに、
渦中の狂骨はしっかりと埋葬されたのだと、こんな馬鹿げた話がある物か。

「必ず暴いてやる」

老人は歯を噛み締め、唸るように呟いた。

今すぐ墓を暴いてその骨を引きずり出してやりたかった、そして砕いて豚の餌に混ぜてやるのだ、
そうだ、あいつは豚に食われて糞になる、悪党にはお似合いの末路では無いか。

痛快な思いつきに老人は痩けた頬を吊り上げた、
涙で湿り気を帯びたその頬を生ぬるい熱気を纏った風が撫でて行く。

質の違う風に驚き老人は顔を上げた。

「なんだ、これは」

農地から少し離れた林の傍、その様変わりした風景に、
手に持った猟銃を落としそうな程唖然とした様子で老人は立ち止まった。

薔薇が咲いていた、妖しく美しい紅が月光に負けじと赤い火を灯していた、
夜空の星のように点在する赤い花弁を支え守る茨が、牙のような棘をむき出しにして所狭しと茂っている、
それはさながら無数の蛇が絡まりあいながら鎌首を擡げているようで、酷く危険な臭いがした。

間違いなくこの先だと、老人は思った。

この薔薇はとても自然に生える様な代物ではない、
この場に何かの強い力が介入している、そしてその何かを考えるなら、
このあたりに埋められたという、狂骨の遺骨しかきな臭い物は無いのだ。


意を決して、目の前に垂れる茨を猟銃で払って歩を進める、
足元の広がる茨も踏み越えて、一歩一歩緩慢に進んでいく。

鬱蒼と茂る茨の森である、当然全ての茨を払っていく事等出来ず、
茨の牙が軽装の老人に突き刺さる、老人はたちまち傷だらけにになって赤い血が滲み出る。

熱い。

身体の表面をなぞる血を老人は心地よく感じた。

娘と孫は、この痛みと熱さを感じながら死んでいったのだろうかと、老人は思った、
この熱さをもっと全身で深く感じれば娘達が味わった苦しみを理解出来るだろうか、
一瞬、そんな破滅的な思いが過ぎったが、それはすぐに過ぎ去った。

そんな事をするのはもっと後だ、今やるべき事は娘達に変わって怨みを晴らす事なのだ。

暫く茨の森を進むと、眼前に緑の壁が見えてきた、
先の様子が見えない程茨が密集して生えている、茨を一二本払った所で到底通れそうも無い。

老人は直様猟銃を構え、撃った。

一発、二発。がうん、がうん、と、重い破裂音が響いた、夜鳥が驚いて羽ばたく音が聞こえる。

弾丸で断ち切られた茨が撓垂れて僅かな隙間を作った、
これなら茨を押し退けて多少強引にでも向こう側へ行けるだろう。

老人が茨に手を掛けようとしたその時、背中に視線を感じた。

振り向くと、薔薇が爛れたような赤を光らせこちらを見つめていた。

どうしようもなく嫌な気分になった老人は、その薔薇目掛けて一発、がうん、と撃ち放った。

赤い花は弾け飛び、辺りの茨を赤く染めた、赤い花は血のようなどろどろとした液体となって茨から重く垂れている、
老人はその異様な光景をしっかりと見てから進むべき道に向き直った。

体中に傷を作りながら茨の壁を乗り越えると、そこは随分と開放的な場所で、後ろに広がる茨等まるで嘘のように感じられた、
先ほどまでまるで感じなかった風が林を揺らし、老人を撫でる、風は相変わらず生ぬるく、不快だった。

林の手前の地面に酷く傷んだ刀が突き刺してあった、地面は少し盛り上がっている、
雑に埋めたのだろうか、周りに土竜が掘り返したような隆起が見られた。

「ここだ」

言ってすぐ、老人はその"墓"に飛びついた、刀を抜いて放り投げ、地面に齧り付くようにして地面を抉る。

もうすぐだ、もう直ぐなのだ、もうすぐ全てが終わるのだ、

憎い奴め、憎い憎い憎い奴め、鬼め、悪魔め、化物め、

すぐに、すぐに掘り出して、砕いて、豚にやって、糞にしてやる。

それでようやく、きっと、怨みが全て晴れるのだ。

血走った眼で、涎と涙を垂らしながら老人はそう信じる。

既に地面を掘る指先からは血が噴き出していた。

涎と涙を垂らしながら地面を掘ったのは今が初めてではなかった、二月程前、娘家族を葬ってやるために穴を掘った、
肉片になった娘達を葬ってやるための穴を掘っていた時、どうしようもない感情が涙と涎となって溢れて出てきたのだ。

今も同じで、そして違った。

今は希望があった、もうすぐ怨みが晴らせると言う希望、どうしようもない感情の中に希望が明確に包まれている。

老人は掘った、爪が剥がれて中の柔らかい肉が破れても手を止めなかった。

やがて、白い骨が見えてきた、老人は頬を紅潮させて手を早めた、
掘ったひたすらに掘った、見えた骨は丸い形でこれは頭蓋骨だとすぐに分かった、
老人は掘る、悪鬼のように歪んだ顔で掘った、そして、



目が合った。


上半分だけ露出した頭蓋骨の右眼窩に、酸化した血のように赤黒い、恐ろしい眼が咲いていた、
否、眼では無い、それは薔薇であった、頭蓋の右目に赤黒い大きな薔薇が咲いている。

強烈な赤は老人の眼に入り、視神経を通って脳に危険を知らせた、
この場は危険だと、脳が、老人の枯れた生存本能が叫んでいる、しかし、老人は引かなかった、
地面に齧り付いたままの姿勢で猟銃手元に手繰り寄せ、銃床で半ば埋もれた頭蓋を叩きつける、
酷使し続けた両手は銃床で殴る度赤い血を噴き出した。

甲高い音が何度も響く。
砕けろ、砕けろ、砕けろ。
老人は心の中で念じた。

その時、背後で凄まじい熱気を感じた。

思わず殴る手を止めて振り返ると、そこは一面火の海と化していた。

薔薇が燃えている、紅く、妖しく、美しい薔薇が地獄のような炎を吐いている、
月まで焦がす勢いで燃え上がった炎は、茨を焼いてばちばちと激しく鳴き喚いた
炎に焼かれた茨が身を捩らせると火薔薇は艶かしくその美しい身体を揺らして、花粉でも飛ばすかのように激しく炎を噴いた。

暫し呆気に取られていた老人だったが、やがて茨の焼ける音の他に、別の音が混じっている事に気づく。

もくり、もくり、土を掘り返す時の音が控えめに聞こえる。

老人は先ほどまで自分が暴いていた墓穴に視線を戻した、瞬間、顎の辺りに火花が散り、視界は空を写す、
何が何だか分からずに目玉をぎょろぎょろと動かす、
口元を押さえつけられる感覚があったので、視線をそちらにやると白くて硬い手見えた、
視線でゆっくりその手の元を辿っていって、そこでようやく老人は恐怖を抱いた。

骸が、狂骨が、墓穴から這い出していた、上半身はほぼ地面の上に出ていて、右腕でもって老人を押さえつけている、
右眼窩に咲いた異質な薔薇が老人を見つめている。

「あああああっ！！！」

堪らず老人は自分を押さえている右腕を払い除け、転がるようにして距離をとった、
すぐ後ろから熱気と茨が爆ぜる音が聞こえる、唾を飲み込み、老人は辛うじて手放さなかった猟銃を構えた。

———花が咲いたよ

八方から聞こえてきた声に老人は身体を震わせた。

ずるり　ずるり　ずるり　ずるり

眼前の骸は顔をこちらに向けたまま、両手を地面に付いて更に這い出ようとする。

———彼の花、右目の花、少し不格好だが

飛び交う声、閉ざされた退路、迫る骸、老人の白く薄く濁った瞳が震える、
血だらけの両手に力を入れて、引き金に指を掛ける、もう限界だった。

———とても綺麗だ

がうん

恐怖を狂気を、解き放つように撃たれた弾丸は、骸の頭部に当たった、
大きく顔を仰け反らせた骸だったが、すぐに何事も無かったかのように動き始める。

———貴方に種を蒔いたなら

がうん　がうん　　がうん

———どんな花が咲くのだろう

がうん　　　がうん　　　　　　　かちっ　かちっ　かちっ

顔から血の気が引くのを、老人は感じた。

骸は四つん這いでこちらを見ている、右目の薔薇から伸びる茨で顔を侵食されながら、大口を開けて笑っている。

老人は背後を見た、無数の火薔薇が紅く揺らめきながらこちらを覗いていた、
そこで老人はやっと気づく、この声の主は"火薔薇達"だったのだと。

———我らはそれを、見てみたい

骸が飛びかかってきた、老人はなすすべなくそれを受け入れる、
骸の白蛇の様な手が両方とも老人の口に滑り込み、縦にこじ開けた。

顎の関節が外れ、口端の皮と肉が裂けるじりじりと言う音が耳を劈く、
老人は堪らず悲鳴を上げた、喉だけで上げる無様な悲鳴だった。

鞠が入りそうな程開けられた口に燃えた茨が侵入する、
燃えた茨は口内を焼き、声帯をずたずたに引き裂いて老人の体内を這いずり回る、
もはや悲鳴すら上げられずに老人は手足を操り人形のようにばたつかせた。

茨が胃腸の辺りで暴れているのか、老人の腹部が不自然に浮き上がり始めた、
泡を吹き、血を吹き、涙に塗れた老人の顔は既にこの世の者とは思えない形相になっている。

骸が老人の口から手を離すと、茨に引かれて老人は火の海へと飛び込んでいった。

炎が一層強く燃え上がる。


とても苦しくて、とても熱かった。


老人は薄い意識の中で孫の顔を思い出した、


笑顔の顔が思い出せなかったのが、老人は酷く悲しかった。










———種は蒔かれた



火薔薇が揺れる。










空が白んだ頃、火薔薇の炎はようやく静まった。

一面焼け野原と化した地面に、一輪だけ薔薇が咲いていた。

花弁が厚く、赤黒い不格好な薔薇だった、狂骨は茨の這った腕でそれを摘み取って掲げる。

———貴方と似ている、思いの花

「怨 み の 花」

———今度はもっと違う花を咲かせよう、あの子も、あの子に根付いている者も見たことがない様な素敵な花を



———我々で花を咲かそう、花を増やそう。



———貴方には、キタイ、している。狂骨。




狂骨は歩き出した。

歩くたび、かたかたと乾いた音が飛ぶ。

歩くたび、かさかさと火薔薇が揺れる。

右目の薔薇が上を向く。

狂骨はけたけたと笑った

自らの悪運を笑っているのだ。


狂骨はけたけたと笑い続けた。

ふと、足元を見る。

"骨"が、足元に来ていた。

全てが終わり、消える、人も、敵も、殺意も

しかし、骨は、女への恨みを忘れていなかった。

狂喜し、笑みを浮かべる。



終わる闘争の片隅で、狂気に満ちた殺し合いが始まった。