私には妹がいた。
　四つ下の、私とよく似た妹だった。目元だけは私と違ってつり目だったけれど、それがあの子にはよく似合っていた。

　私の実家は魔術師の家だった。
　一族の連中は自分達を「由緒正しい魔術師の血統」だとか何とか言っていたけれど、実際は曾祖父の代から魔術に系統し始めた新参者だった。
　曾祖父は黒魔術に熱心だった。だからその後を継いだ連中も皆、曾祖父の後を追おうと必死だった。幼い我が子を生贄にして化け物と契約した親戚もいた。人々を騙しては異界に送り込む実験にのめり込んだ親戚もいた。強力な呪いを求めて遠い国に向かい、帰って来なかった親戚もいた。
　やがて私の一族は、覚えた魔術を実践するためだけに、暗殺や呪術の依頼を受けるようになった。
　私の両親も例外じゃなかった。両親の得意分野は召還術だった。呼び出す力はこの世界から得ることもあったけれど、大半は異界から呼び出したり、無理矢理引き出したりしていたらしい。両親は私達兄妹に、異界とつながるための呪文を学ばせた。様々な世界が（これが分割世界の事だと知ったのはもっと後の事）どのような位置にあり、どうすれば安全にその間をつなぐ事ができるか。どうすれば世界と世界の狭間に落ち込んでしまわずに済むか。そういった内容を私達に教えたが、実行することは許さなかった。
　私は実家の魔法が嫌いだった。もっと素晴らしいものは沢山あるのに、それらを無視してこの世で一番暗くて陰惨な場所へ行こうとしている。そのためなら何を犠牲にしたって構わないとさえ言う。無関係の人を何人も世界の狭間へ放り込んでも、大勢の人を化け物に食わせても、罪悪感ひとつ持たない。そんな自分の家が、親戚が、両親が、私は大嫌いだった。
　ただ一人心を許せたのが妹だった。私がもっと大きくなって一人で生きていけるようになったら、こんな狂った場所から彼女を連れ出そうと決めていた。
　しかし彼女は私と違い、両親の語る理論に魅了されていた。私がそれに気がついたときには手遅れだった。
　十三歳になった時、彼女は両親に内緒で異界とのつながりを作ろうとした。私は止めたが彼女は聞かなかった。仕方なく、私は彼女の側でその術の成り行きを見守る事に決めた。隣で私が監視して、危なくなったら彼女を止めて逃げればいい。そんな風に考えていた。
　今なら、私がいかに甘かったか分かる。
　彼女は自分でも思わぬ場所に扉を作ってしまった。そこから不定形の、或いはあらゆる形を取った闇がなだれ込んできた。
　名状しがたいそれを前にして私は凍り付いた。意識の空白は妹の悲鳴で吹き飛んだが、既に私は逃げることしか考えられなくなっていた。
　私は、妹を置いて、そこから逃げた。


　あれは妹を殺さなかった。彼女の魔力が気に入ったあいつは、彼女の体内に寄生した。
　命に別状はなかったが、それ以来妹は変わった。変わってしまった。当たり前だ。兄に裏切られ、得体の知れない化け物が体内に巣食うことになった。これで変わらない者がいるだろうか。
　両親は最初こそ私達を叱責したが、妹に寄生した『あれ』の利用価値に気がついて目の色を変えた。『あれ』は宿主である妹の指示で自在に姿を変えた。どんなふうにでも応用が利いた。
　両親が妹を後ろ暗い仕事にかり出すようになるまで時間はかからなかった。
　私はそれに耐えきれなかった。
　私に視線すら向けなくなったあの子にも、どんどん荒む彼女を目の当たりにしながら何もできずにいる自分にも。
　そうしてもう一度、私は逃げた。家を出て以前から知り合いだったスギのところに転がり込んだ。両親からは勘当されたが、もう、どうでもよかった。
　しばらくして、妹が出奔し海外に逃げたという話を聞いた。それを血眼になって私の一族が探し回っているという噂も。
　それを機に、私はスギの魔術の師匠に弟子入りした。
　力が欲しかった。今度は逃げたくなかった。あの子を、あのおぞましい一族の手から少しでも離してやりたかった。
　私はあいつらの汚濁を焼き払う炎になりたかった。それで「炎の山」と名付けられた土地から生まれる紫水晶を、自分の術の核にした。もともと、私は紫水晶から離れられない体質だったし丁度よかった。
　そして私は名前を変えた。境戸紫鵬という、親に押しつけられた名前から離れたかった。少しでも自分の家のことから離れたかった。けれど妹の事も忘れたくなかった。だから自分の名前の一部をあの子の名前ーー鯤と、取り替えた。
　紫鯤。私を戒める名前。いついかなる時も自分の愚かさを忘れないための。
　名字は炎の山と、それが位置する砂漠の国から勝手にこじつけた。長すぎると笑われることもあった。それでいい。私はもっとあざ笑われるべきだ。

　鯤の行方はスギが探してくれていた。しかしなかなか接触が取れなかった。名前を変え、どこかの魔術結社に所属して、あちこちの異界を探索しているらしかった。
　そんな彼女の足取りを追ううちに、ある異界で私は呪いを受け、自分の世界に帰れなくなった。
　一度、かなり長い時期妹が行方不明になった。完全に外と隔絶された異界に行ったらしいとライの書簡で読んだ時は絶望したけれど、どうにかあの子は脱出して、元の世界に戻ったらしい。その後は（結社で何かあったのか）異界探索には行かず、ずっと元の世界に留まっているらしいとのことだった。
　私は焦った。鯤がもう異界に行かないのなら、私が異界にいる意味はない。どうにか呪いを解かないと。
　そうして情報を求めて、私は、メルンテーゼに来た。

　ねえ、そう言うことだっただろう、スギ？
　なのにこれは、この文章は、どういう事なんだろう。



「……紫鯤！」

　彼の体がぐしゃりと崩れた。
　そのまま不定形の黒い塊になって、俺の目の前の地面にわだかまる。あちこちにきらきらと、紫水晶の装飾品が浮かんでいたが、やがてそれも吸い込まれて、消えた。

「紫鯤、おい、紫鯤！　しっかりしろ！」

　駆け寄って黒い塊に腕を突っ込む。ずぶりと、俺の両腕が抵抗なく沈む。どこかに「核」があるはずだ。そこに直接命令を叩き込んでやれば、まだ、何とか、

「無駄ですよー？」

　場違いに、明るい声がした。女の声だ。
　驚いて顔を上げると、少し離れた場所に女が一人立っていた。白衣に身を包んだ小柄なそいつは、嫌な笑いを浮かべながら俺の方を見ていた。
　見たことがある顔だ。

「お前、確か」
「お久しぶりですねー、杉上さん？　境戸家での全体集会以来、でしたっけー？」

　間延びした声で言って、そいつが近づいてくる。

「分家所属の、境戸ライですよー。覚えてないでしょうけどー」
「……やたらと紫鯤を覗きに来てたのは覚えてる」
「あらやだ、めざといんだからー」

　ライはわざとらしく肩を竦め、溜息を吐いた。
　このタイミングでの登場、偶然な訳が無い。見張っていたか、或いは。

「お前、紫鯤に何を吹き込んだ？　いつからこいつと接触していた？　答えろ」

　俺の知らない間に接触していたと考えるのが妥当だろう。

「ううーん、スギさんも手厳しい。そうですねー、コレが分割世界をうろうろするようになった頃から、ですかねー」

　言いながら、彼女はハイヒールのつま先で紫鯤（だったもの）を軽くつつく。

「あなたに知られないように近づいて、おうちの事スパイしてあげましょうか、って言ったらほいほい引っかかってくれましたよー？　境戸家への強すぎる反感を埋めこんだのと、性質を『優しく』しすぎたのが裏目に出ましたね。あなたに心配をかけたくない、って言って私のこと黙っててくれたんですよー。いやー健気ですねー」
「……何のつもりだ」

　こいつは境戸家のーー紫鯤を利用しようとしている人間だ。嫌みを言いに来ただけではないだろう。
　俺の言葉に、ライはわずかに目を細めた。

「決まってるでしょう。返してもらいますよ、ソレ。もう十分データは取れましたし、あなただって満足したでしょ？」

　彼女の視線の先には、未だ黒い塊が這いつくばっている。

「あなた、本気で私達から逃げられると思ってたんですか？　泳がされているとは、どうして考えなかったんです？」
「……そんな、俺は」
「あなたが対象0204を持ち出した時点で、境戸家は実験を長期観察へとシフトしました。我々が作り出した『紫鯤』はどの程度人間として通用するのか、どの程度のショックを与えられたら不安定になるのか。人斬りに遭ったのは丁度良かったですね、アレのおかげで随分スムーズに進みましたよ」

　言葉が出てこない。
　どうにかして紫鯤を、こいつから離さなければならないのに、何もできない。

「さて、後はあなたがソレにかけた転送妨害を解除して、境戸家に持ち帰るだけです。あなたも、一緒に来てもらいますよ」

　ライが右手をかざす。途端、

「……っ！？」

　いきなり俺は地面にたたきつけられた。見えない力で上から押さえつけられているように、体が動かない。
　目の前には、紫鯤だった黒いもの。

「ああ、あの三人にも一緒に来てもらうのも良いかもしれませんね」

　あの三人。紫鯤の、この世界での仲間達の事か。

「何、を」
　　　　　　　　　　　【……嫌だ、】
「彼らも長期間、対象0204と一緒にいましたからね。私達の世界の人間と違う面も多々あるようですし、研究しがいがありそうです」
「よせ、彼らは関係、ない」
　　　　　【……やめて】
「それを決めるのはあなたではありません。では、行きましょうか」

【……やめろ！】

　不意に大声がした。
　紫鯤の声だ。だが姿は見えない。ライも不意をつかれたようで、あたりを見回している。
　その隙をつくように。
　黒い塊から突然、巨大な腕が飛び出した。丸太のように太いソレが、思い切りライに向かって振り抜かれる。

「……嘘っ！？」

　咄嗟に後退りして逃げるライだが、なおも腕が追いすがる。

「そんな、この状態で」
【わたしのなかまに】
「意識なんて、残ってるはずが」
【なにか、したら】

　ぞろり、と。
　無数の目が、黒い塊の中からライを見据える。

【ゆるさない】

　ライは高く跳躍して、ぎりぎり腕が届かない位置まで離れた。
　黒いものもそれ以上追おうとはせず、その場でぐるぐると動き回っている。

「予定外、ですね。一旦立て直して……！？」

　いつ移動したのだろうか。
　普段、黙って紫鯤に付き従っていたサラマンダーのカメリアが、ライの前に佇んでいた。
　ライが「訳がわからない」という表情でカメリアを見る。

『お疲れ様でした』
「……は？　な、何の話ですか？」

　ライが怪訝そうに聞き返す。
　俺も、無口と聞いていたカメリアがいきなり喋り出したものだから、少なからず驚いていた。

『お陰様で判断がつきました。もう、帰って頂いて結構です』

　恐らくここにいる誰も意味がわからないであろう台詞を呟くと、カメリアは大きく、不自然なほどに大きく、口を開けた。朱色の鱗が黒く染まり、小型犬ほどしかなかった身体が牛のように膨れ上がった。
　そうして、相変わらず呆然と硬直しているライを、頭から一呑みにしてしまったのだった。

『失礼いたしました。お怪我はありませんか』

　俺が動けずにいると、普段通りの姿に戻ったカメリアが、何食わぬ顔で近づいてきた。

「お、お前、今、何を」

　敵対勢力の人間とはいえ、こいつは人を一人食べてしまっている。
　俺の緊張を察したのか、カメリアが僅かに笑い声を立てた。

『ご心配なく。彼女についてはメルンテーゼの片田舎まで転送しただけです。本当なら元の世界に送還したかったのですが、私の権限では叶わなかったものですから。時間稼ぎにはなりましょう』
「……そう、か」

　カメリアの言葉は、やはり良くわからない。権限とか転送とか、一体何の事なのか。
　だが、それは一旦置いておく。
　俺には先に知りたい事があった。

「お前、もしかして」

　ここでもやはり、俺の疑問を察したのだろう。
　カメリアの緑の目がきらりと光った。

『お察しの通りです、杉上。私は所謂エンブリオではありません』

　不定物aは、ある程度までなら、擬態した相手の性質も模倣する。もしもエンブリオが持つ「ネクターを介して契約関係を結ぶ」という性質も、模倣できるとしたら。
　カメリアは黒い塊の傍に立ち、そこに優しく触れながら告げた。

『私はあなた方が「不定物a」と呼んでいる存在、その一個体です』