《負けた？》
「うん、負けたの」

　久々の連絡。
　世界を隔てた電話の向こう、スギの声に笑いの気配がする。

「山登りしてたんだけど、こてんぱん」
《それは災難だったな》
「こっちに来て初めて負けた。マジ悔しい」
《……怪我の具合は？　動けそうか？》

　彼の声から笑いが消える。代わりに心配が顔を出している。
　本当に真面目な奴。今度は私の方が笑ってしまう。

「大丈夫、逃げ帰る程度の体力は残ってたし。ちょっとしんどいけど、明日の進攻には問題ないさ」
《そうか。それなら良いが、あまり無茶するなよ。妙にぼんやりしてるからな、お前》
「はいはい。……あ、そうだ、スギ。一つ聞きたいんだけど」
《何だ？》
「LaWSysってさ、暴走したりすることってあるの？」

　私の問いにスギが黙り込む。
　今回の攻城戦、私達は初めての敗北を喫してしまったのだけれど、その時にちょっと、妙なことがあった。
　強い目眩と、体の境界がぶれる感じ。体中の紫水晶が、狂ったように明滅した。
　ぶれてぼやけた私の境界はそのまま、紫色の煙か靄のようなものに変わり、黒く影のように滲んで、敵に飛びかかって行った。
　勿論、私はそんな術を使った覚えは無い。目眩は傷と消耗のせいかとも思ったのだけれど、どうも違う気がする。
　ダメージのせいで集中が乱れて、LaWSysの制御が狂ってしまったのだろうか？　だとしたら一大事だ。まともに術の制御ができないようじゃ、皆に迷惑をかけてしまう。
　もしもこれがLaWSysの暴走だとしたら——下手をすると、味方に飛びかねない。
　そう思って兄弟子であるスギに尋ねてみたのだけれど、帰ってきた彼の声には、強い当惑が浮かび上がっていた。

《……すくなくとも俺は、暴走した例は聞いたことが無い》
「本当？」
《そもそも、上手く行かなければ何も起こらない術だからな。世界に書き込んだ情報が誤っていた場合、或いは世界を騙し切れなかった場合。LaWSysが失敗するのはそういった状況が大半だが、そんな時は世界による修正が速やかになされて何も起こらない》
「うーん、そうなるのか……」
《ただ、お前も知っての通りこの術は歴史が浅い。未だに山ほどの検証を必要としている。お前のそれが最初の暴走例になるかもしれん。とにかく、注意しろ》

　いまいち釈然としないが、この件に関してはスギにも分からないのだ、ということはよく分かった。
　だからそれ以上は突っ込まず「分かった」とだけ返した。

「それじゃ、そろそろ切るね。また連絡する」
《ああ。気をつけろよ》

　ぷつん、と電話が切れる。この時はいつも、少しだけ寂しい。
　メルンテーゼはとても賑やかだけれど、やっぱり時々湿っぽくなってしまう。
　私はこの世界のものではない。一方で自分の世界にも帰れない。私は一体いつまで分割世界の中を彷徨い続けるんだろうとか、そんなどうしようもないことを考えてしまう。

（……疲れてるんだな、さっさと休もう）

　頭を振って感傷を追い出し、その場に横になる。こういう時は寝てしまうに限る。今日は負けてしまったけれど、状況は待ってくれない。明日は噂に名高いブランチマンに挑むことになっているのだし。




　彼女からの報告は、また、明日読もう。
　今の私には、読む勇気がない。