俺はアンタほど強くないんでね。

そう言って死んでいったひとがいる。
かつて襲った私に小さく詫びて、なにもかも失ったからと、全部を諦めたひとが。
その小さな謝罪が、針のように、深く深く、こころに刺さった。

私は、強くなんてなかった。
強ければ、彼とそんな風に言葉を交わすことはなかっただろう。
いつかの日、かあさんを守れただろう。

奪われることを、諦めて。
そうして痛みから逃げて、目を逸らして、私はもう、降りることさえできない。
降りてしまえば、かあさんがあんなにまでして私を守ってくれた、その意味さえ失くしてしまう。
私から何が奪われようと、何を失おうと、かあさんの生を無に還すことだけはできないのだ。
すべてを賭して守られたいのちを、自分から投げることは、きっと何より罪深い。

謝らないで。
どうか。
謝るくらいなら、諦めないで。

告げたかった言葉も、くちびるに乗せることすらできなかった。

私に何が言えるだろう。
奪われ尽くして、それでも生きる、そんな生き方を誰に、勧めることなど。
事実あのひとは、そんな生き方をする私を厭うていたのに。

去ったひとを思う。
右目の奥が、いまさらのように重く痛む。 薄い霞。 手のひらで覆って目を閉じる。

奪わなくても手に入っただろうと、彼は言った。
ならば私にも手に入るだろうか。
この失くし続けてきた手でも、何かを得られるだろうか。

私は、何かを得る自分に耐えられるだろうか。

もうずっと、私はひとりだった。
誰とも深く関われずに、目を伏せ過去を思って生き、今をもただひたすらに過去にしながら歩んできた。
私の思う幸福は、積み重なった過去の薄衣のむこうにほんのわずか透けて見える、かあさんの面影に過ぎなかった。
それ故に、未来さえもが過去の似姿をして。

最後に見た、力なく投げ出されたかあさんの腕。あの腕が、私の胸を掴んで離さない。
私は確かにかあさんを愛していた。かあさんも、おそらくは、私を愛してくれていた。
だがその一方で、私はあまりに深く、かあさんに縛られている。
そしてそう理解しながらなお、その手から逃れ得ない。

だってまだ、愛している。

彼は走った。しかし…

急に、目で追っていた黒い髪の後ろ姿は地面、続いて真っ暗闇、色すらもわからない火花へと変わった。
周囲に人間がいたかはどうか定かではない。ただ、いたとしたら何人かは笑っていただろう。
彼は前のめりになって転んだ。

立ち上がった時、すでに燈子は目の前からいなくなっていた。

平原、水辺、山や森かもしれない。

かつて語り合った、どこともつかぬ場所。

彼はメルンテーゼ中を捜し回った。

　　　　　　　　屋上に墜ちていたぬいぐるみ、いつまでも空を見ていた。