霞のように輪郭をぼやかし消える黒騎士から、手を貸したふたりへと視線を投げる。
先へ先へと急いて進む彼らには、どうやら彼女の言葉は届かなかったらしい。
怪我を押して去っていく姿が消えるまでを見届け、ねえ、と掛けられる言葉にそちらを向く。
佇む廊下は何処か寒々しい。兵の姿も、エンブリオも、随分と数が減った気がする。
新王が一揆隊に敗れ、争いは収束しつつあると言う話もあながち嘘ではないだろう。

そうだなァと奥へ続く階段を一瞥して、彼女を見下ろした。
新王に会って直接陳情するのが最初の目的だ。けれども争いが終わったのなら、
王は打ち倒されたか——先着した部隊の訴えを聞き入れ、投降したに違いない。
それならば。

「王様側が剣を投げ捨てたんなら、争いはじきに収まってくだろうなァ。
　そこから先の話は王様とルリアンナ達がするコトで、おれらが出来るコトと言ったら、
　…うん。メルンテーゼが元の活気を取り戻せるように支援する…とか」

彼女のように癒しの力を持っているなら、怪我人の手当の助けも出来る筈だ。
王に会うより争いで受けた人や土地や世界の傷を癒す、彼女のその考えを後押しするよう、
頭の中で言葉を選んでそう返す。争いが済んで、それで全てが終わるわけではない。
この世界の為に出来る事と言えば、きっと、彼女の言葉を借りれば“治す”事なのだろう。

「おれも、それがイイと思うぜ。
　ヤドランカは怪我人たちを癒して、おれは瓦礫退かしたりで復興の準備を———」

不意、袖を引かれて瞬き落とす。
一拍置いて村に戻りたいと告げた言葉に、何故だか自然と、小さな笑みが浮かんだ。
そこに住んでいた仲間たちは別の場所へ移った。けれどもその土地は、まだ残っている。
彼女が生まれ育った大切な場所がどうなっているのか、見届けずには何処へも行けまい。

服を掴むその手を取り、不安を振り払う速度で引きながら、来た道を戻りだす。
ただ一言、全力の肯定と頷きを返して。



「行こうぜ」

物語の中では、厭われ、疎ましがられる者たちも、好きでそうあったわけではないだろうから。
そんな彼らも、きちんと幸福を得ているというのなら、それはとても素敵なことだと心から思った。
そして、また彼を見上げる。
同族がいるとはいえ、容易には会えぬ彼のことも。
それをまったく気にしていない風の彼でさえ、世界にたった一人ぼっちは切ないと言う。
生まれたときから同族に囲まれてにぎやかに暮らしてきた自分でさえ、
別離のときは自らが選んだこととはいえ、あんなにも悲しかったのだから。
本当に世界に立った一人ぼっちの人がいたとして、その喪失感はどれほどのものだろう。
同族がいると知ってはいても、実際に会ったことがない彼の胸の内に、
そんな穴がない…と言い切るのは、生まれたときから家族に囲まれていた己には難しい。
もちろん、穴があると言い切るのも、傲慢に過ぎるとわかってはいるけれど。
だから今、彼の肩が笑みで小さく揺れるその向こう。
ぱあっと開けた道が見えた気がして、まぶしいような気持ちで瞬いた。

言って、そうっと手を伸ばし。彼の服を引く。

だいじょうぶ、と自分に言い聞かせるようにつぶやいて笑って見せた。
それより、と話題を変えるように声のトーンを上げて。

ぽつり、つぶやかれた独り言を耳ざとく聞きつけて瞬く。
少しの間のあと、くすくすと笑って。

あれも、これも。
ひとつ目的が出来てしまえば、どんどんやりたいことが増えてくる。
どれも楽しそうで、だからこそ、この計画がとても素敵なものに思えた。
そのための、第一歩。
お菓子作りは自分の得意。だからこそ先に立ったし、
背中越しならとっても恥ずかしいけど言いたかった言葉だって、
きっと言えると思ったのだし。
そして、その試みは成功……したのだけれど。

どんなに急いでてちてち小走りになるくらいに歩いても、足の長さじゃやっぱり勝てない。
あっという間に追いつかれ、まだまだ赤い顔をニヤニヤ笑いで覗き込まれてしまっては、頬を押さえるくらいが精一杯。

照れくさくはあるけれど、ちっとも嫌がっていない高さの声を上げ、いやいやと首を振る。
だが、真綿に包むようにふんわりと発された言葉を聞きつければ、また頬を染めつつも笑みを深め。
えい、と軽く体当たりするように彼との距離を縮め、腕を取って組もうとした。
目の前に開けたまぶしい未来へ続く道を。これまでと変わらず、笑いあいながら歩いていけるように。

歌うように呟いて、羽根ペンを持った右手を伸べる。
羽根ペンに宿った光のひとつが飛び出して、くるくると回り始めた。

ひとつ、ふたつ、みっつ。
回るたび、辺りの温度が下がっていく。
吐く息が白くなる。ちらちらと、白いものが落ちてくる。
星まで凍らせるような冷たい風が、サッと下から上へと吹き上げた。
目を開けると、いつから立っていたのだろう。
そこには、白い肌、赤い反物を携えた女がいた。