【Before Grand=Guignol】


その奇術師は孤独だった。
両親は早くに他界し、兄弟はなく、
生来の人相の悪さと性格の不器用さのせいか友人と呼べる人間もいなかった。

そんな彼にどういう訳か、恋人ができた。
酒場の端でまばらな客相手に手品を披露していた時、近寄ってきた女だった。
俺には勿体無いくらいの美人だ、と彼は思っていたし、実際綺麗な女だった。
奇術師は少ない収入の中から少しずつ貯金をすることにした。
彼女に指輪を買うためと、二人の将来のために。
女はよく結婚をほのめかしていたし、何より彼は女を愛していた。



それから少し経った。
彼はかなり痩せて顔色も悪くなったが、指輪を買う金は貯まった。

明日指輪を買いに行こう。
彼女は連れて行った方がいいだろうか、それとも知らせないで渡した方が驚くだろうか。
喜んでくれるだろうか。

何だか…とても眠い。
明日起きたら、彼女には内緒で買いに行こう…


*******


次の日。
奇術師は普段よりかなり遅くに目を覚ました。
彼は眠りの浅い方だったが、その夜は珍しく、よく眠っていたらしい。

「…***？」

部屋の中に、恋人の姿はなかった。いくら探しても、名前を呼んでも、彼女は何処にもいなかった。
気に入っていたスカートも、小さな爪を飾っていたマニキュアの瓶も、彼の家に来た時に持っていたただひとつのトランクも。
女の持ち物は跡形もなく、消えていた。

そして、彼が身を削って貯めた金が、持ち去られていた。

寝台の横の机に、昨夜飲んだ安酒の残りがあった。
彼は酒はあまり飲まなかったが、昨夜は女に勧められて、一杯だけ飲んだのだ。
飲まないとは言え、一杯で熟睡出来る程弱くはない。
理由はすぐにわかった。
酒瓶の横に、粉薬の包みが落ちていた。
置いていったのか忘れていったのか、開いていない包みも寝台の下から出てきた。

今まで一緒に過ごした時間。
将来を語り合った言葉。
彼女の体温と柔らかさに感じた安らぎ。

その全てが虚構だった。

彼は女の置いていった薬と安酒の残りと、小さなナイフだけを持って家を出た。

空腹を抱えて、町の外れの森まで歩いて行った。
森の奥まで入っていき、大きな木の下で腰を降ろした。
薬と酒を一気に飲み干し、それから、

「…もう眠ろう。」

恨んではいなかった。
憎んでもいなかった。
驚きはしたが、こんなものか、とも思った。
不釣り合いなものを望みすぎた。
ただ、それだけだ。



酒で火照った肌に、小さな刃は痛い程に冷たかった。







*******


町の外れの森の奥。
長身の男が木に背を預けて座っていた。
近くに転がった酒の瓶一本。
右手から滑り落ちた小さなナイフ。
左手首にざっくりと開いた切創。
体の下の地面は大人一人分の血を吸って赤く濡れている。

「こんばんは。よく眠れたようだね？」

逢魔が時、森の中。
よく通る、気取った男の声が響く。
木々の間を這う黒い霧が、華奢な人影を連れてくる。
落ち葉の上を歩く柔らかい足音に、時折小枝の折れる音が混じる。

「さて、残念だがもう起きる時間だ」

木にもたれる奇術師の前に、派手な上着の男が現れる。
奇術師の蒼白な顔よりもなお白い貌をした、細身の男。
右手にステッキ、左手は羽飾りのついた帽子の端を持ち上げている。
芝居がかったその仕草は、しかし妙にしっくりと馴染んでいた。
男の双眸は虚ろな穴のようで、赤い光が瞬いている。

奇術師には見えていない。
奇術師にはもう、何も見えない。
目蓋は見ることを拒むように、固く閉じている。



《彼は奇術師みたいだよ。辛気臭い顔だけど、腕は確かだって》

男の肩越しに、少女の声。
浮遊する革表紙の本から聞こえてくるその声は、まるで見てきたかのような調子で語る。

《この子は生きていた時、誰にも必要とされなかったんだ》

《やっと自分を必要としてくれる恋人に出逢えたと思ったら、手酷く裏切られた。まあ、気持ちはわからなくもないけどね》

「一度信じたものを疑うことがないのだろう。だからこそ、裏切りに耐えられなかった」

「良くも悪くも、一途なのさ。騎士、忠犬…そんな印象だね。そしてそういう人間は、」

「守るべき対象を与えてやれば、強い」

《その通り。流石ギー、私の目は間違ってなかったみたいだ》

「どうも。しかしどうだろう、恋人に裏切られたというなら、大人の女性には警戒心を持つかもしれないね。もう少し、幼い…そう、まだ人を疑うことを知らないような…そんな対象が適切だろう」

《うんうん、なるほど。じゃあ今度は、小さい子を探さないとね？》

「心当たりがあるのかね？」

《心当たりはないけど》

《わかるんだよ。もうすぐ消える炎が何処にあるか、私にはね。便利でしょ？》

「僕達が死ぬことも、貴女には事前にわかっていたというわけだ」

《あは、どうかな。気になる？》

「いや？　今となってはどうでもいいことさ」

《そう》

茶番のような会話が終わる。
『座長』を演じる男と、『スポンサー』を演じる少女が、同時に奇術師の骸に向き直った。


「では行こうか。どんな奇術を見せてくれるのか、楽しみだ」

《すっかり血が抜けちゃったから、代わりに何か入れてあげないとね？》

座長の声が、黒い少女の細腕が、奇術師を昏い淵から引き上げる。
奇術師が、暗く塗り潰された瞳を開いた。





*******


さあ、目を覚ましたまえ。
君に大切なものをあげよう。
君が求め続けて、終に手に入れられなかったものを与えよう。
だから次は、しっかりと掴まえていたまえ。
君には守るべきものが必要なのだから。

訝るように　漂う光　暫く間を置いて
後ろにいる我が契約者には　目前のエンブリオが発した　見かけによらず愛らしい声が聞こえていないと分かると
漸く　再度言葉を発した

声色は冷たく　口調は刃物のように鋭い