「ヤレヤレ、ようやくかよ……。」

　アイヴォリーがうんざりした様子で呟いた。その視線の先では黒い霧状のものが徐々に薄れて空気に溶けていくところだ。それを取り囲み、都合九人という大人数が緊張した面持ちのままで黒い霧の状況を見守っている。まるで、それがまだ何かを構成して今終わったはずの戦闘が再び始まるのではないかとでもいったような様子だった。
　とはいえ、先にここを通過した者たちの情報によれば、この相手はこれで終わりのはずだ。それでも彼らが警戒を緩めないのは、今日遭遇したこの相手が常に再生し姿を変えながら何度も襲いかかってきたからだ。
　黒騎士。強力な“障害”として探索者たちの前に立ちはだかる名もなき男。彼はその周囲にまとった闇のような黒い霧から様々なものを構成し探索者にけしかける。“変成”という名をつけられたその現象は、正確には黒騎士のそれではなく、黒い霧自体が持つ能力らしい。現に戦闘開始とともに排除されて文字通り霧散した黒騎士はそこから何もしてはいない。黒騎士が倒れた後も彼の周囲に蟠っていた霧そのものが次々と姿を変え襲ってきたのだ。もっとも、排除された黒騎士自身もその霧に立ち混ざっているのかも知れなかったが。
　これだけ多くの探索者が集まったのも、この黒騎士の持つ霧の能力が厄介だと知っていたからだ。時間を合わせ、お互いに協力することを事前に取り決めておくことで今回のような一時的な共闘が出来る。それによって本来であれば厳格に指定されたパーティの枠である四人という人数を超えることが出来るのだ。
　再び黒い霧が何かを形づくり始める。周囲の探索者たちの緊張が高まった。霧は最初にあった黒騎士の姿を取り始める。

「そんなバカナ……パラダイス様のチカラ……ヲ……」

　もはやそうするだけの力が遺されていなかったのか、不明瞭な言語を呟きながら再び黒騎士は薄れてゆく。黒い霧は今度こそ本当に四散し、そして後には彼が着ていた鎧だけが地面に落ちて騒がしい音を立てた。

「ヤレヤレ。」

　もう一度アイヴォリーが呟き構えを解く。既に王は倒されて力を失ったのだから、黒騎士に与えられていた力も消えるのかと思ったがそうではなかったらしい。既に与えられたネクターの力は残存し、これでようやく本来のところへと戻るのだろう。
　一揆は終わった。既に探索者たちは掃討戦とでもいうべき状態へと移っている。各自が自らの力に合った“障害”へと思い思いに挑み、最後の戦いを繰り広げているのだ。それはどこか、この世界に集まった者たちが残された最後の数日を惜しんでいるかのような、どこか祭めいた雰囲気さえあった。

「これでここも完了ね。」

　エルフの少女が妖精の相方とともに戦利品を見繕ってやってきた。前回の竜の山に続き、彼女が引率してくれる者を探してきたのだ。同行者を探していたその人物に連れられて本来であれば到達出来ない先の区画まで進むことが出来、黒騎士と戦うことが出来たのだ。アイヴォリーたちも明日には森の中で途中までで中座していた探索を進め、森の守護者と戦う予定になっていた。
　今日の戦いが終わり、明日になればもう後二日しか残されていない。“障害”に遭遇出来るような探索位置はアイヴォリーの知る森の奥で最後だ。最後の日は恐らく辺りを徘徊する通常のエンブリオを相手にして比較的穏やかに過ごすことになるだろう。彼らにとっても、この世界での探索は終わりを告げようとしていた。

「さて、どうすッかねェ……。」

　やってくる二人を眺めながらアイヴォリーはそう自分に呟いた。まだ自分の中で闇が頭をもたげ、這い出そうとしているのは感じている。シェリーなどはその闇の気配を敏感に察して近寄ろうとしないのだ。
　メイリーを失い同時に無くした目的。彼女たちに拾われてようやく生きる気力は取り戻した。だが、あのかけがえのない妖精の伴侶の望むままに次の目的地を決めていたアイヴォリーには次に目指すところがない。ようやくこの世界での戦いが終わり、今まさに途方に暮れている、というのが正しい彼の状況だといえた。
　とはいえ、為さねばならない事柄があるのは理解している。その為にどうすれば良いのかは曖昧なままで見当もつかないが、今のままで良い訳ではないのは確かだった。

テメェを、どうにかしねェとな。

　生き続けるために、“命なき者たちの王”を食らった。憂鬱なあの作業は、文字通り腐肉を貪る以外の何物でもなく、今あのときのことを考えても胸焼けがする。彼が普段から公言して憚らないように、生きるためには手段を選べなかったのだ。あそこで闇の王を吸収していなければ、今頃妖精の女王の加護の負債で間違いなく死んでいただろう。死を、命を、魂を統べる王の負の生命力によって妖精の加護を相殺する必要があったのだ。
　だが、それはあくまでも急場凌ぎの思い付きであり、緊急避難とでもいうべきものだ。このまま自分の中に“命なき者たちの王”を飼い続けていれば、今度はそれに支配されて“死んで”しまうだろう。それでなくても、少しずつ時間を糧にして、アイヴォリーの負を食らいながら、闇は少しずつ育っているのだ。今度はこれを、克服するかもしくはせめて抑え込むか、何らかの方法が必要なのは間違いない。
　窓から切り取られた空が見えた。王が倒れ、独占していた力が世界に還元され始めているからなのか、その空は底抜けに青い。恐らくはこれが本来のこの世界の空なのだろう。

「ふむ……。」

　湖に映る空。湖の青。エルフたちは森に“生命の樹”を抱えていた。それは気の遠くなるような歳月を経た古木で、その時間が力へと変わったものだと彼女は言っていた。その一帯全ての森の命を司り、自然のあるべき姿を維持するその力が森を護り、村を守るのだと。それはまさに正の生命力とでもいうものであり、生き物が生まれ、そして死していくという本来のあるべき循環の象徴だった。そうしたものに慣れ親しんだ者であれば、何か方法を知っているかも知れない。例えば、彼がかつて自ら手にかけたあの村の長老であるとか。何にしても、森の奥深いところに住み続け、遥かなときを生きるエルフたちならば何か聞くことが出来るだろう。
　だが、問題はそこへと至る手段だった。森の中の村へと至る道は当然エルフたちの中でも最も重要な秘密であり、辺りのエルフたちを呼び止めて聞いてみても教えてもらえるようなものではない。アイヴォリー自身、あの任務でエルフの村に潜り込んだときには味方から本気で斬りつけられ、半死半生の状態で打ち捨てられたのだ。それでも、エルフたちが一介の冒険者を装った暗殺者を拾ってくれるかどうかはある種の賭けだった。
　となれば、取りうる手段は限られてくる。最も手っ取り早いのは、近くにいるエルフに聞いてみることだろう。

「……ソイツはマタ難問だな……。」

　質問に答えてくれるのも、信頼があればこそ。彼女に聞くのに比べれば、どこかその辺でエルフの女と懇ろになった方が早いような気さえする。この世界で最も難儀しそうな“障害”に、アイヴォリーは大きく溜め息をついたのだった。

さらりと発言に含まれた“禁句”に青くなって真っ赤になって、
怒鳴りつけようと口を開けて……ひとつ深呼吸をして、
口調は抑え気味に、しかしそれでもなお不快感を露わにした表情で、返す。

ちらり、と革手袋に覆われた人間の手を見やり、