「雪菜。」


とても懐かしい声がした。
ぼんやりと霞む頭で、あぁこれは夢だな、なんて思いながら。
ゆっくりとにじむ視界の先で揺れるその影に。
手を、伸ばした。

・・・・・・
8年前—


「雪菜ー」
「雪菜ちゃーん」
「ゆっきーな？」

「うっさいばーか！あっちいけ！」

「あちゃー…すっかり、すねちゃってるっスねぇ。」



玉兎村、ある日の昼下がり。
ご機嫌斜めな少女とそれをなだめようとする青年の姿があった。
少女の名は望月雪菜。
村長の孫娘で、年相応にお転婆な女の子だ。
青年の名は月島雪宏。
雪菜のいとこに当たる人物で、彼女より８つ年上の青年だ。

「嫌いだ。とーちゃんも、雪宏にーちゃんも、大っ嫌いだ！ばーか！」

がるるる、とまるで野生動物のように威嚇する少女に、青年ははぁ、とため息ひとつ。

「あのな、雪菜。お師匠との約束、ちゃんと覚えてるっスよね？」

「……」

お師匠、というのは雪菜の父親のことである。
この村に唯一ある道場の師範をしている。
村の男達は皆この道場に通っており、雪宏も例外ではない。
そして娘である雪菜も、幼い頃からこの道場に通っていた。
彼女の場合、大好きな父親と一緒にいられる時間が欲しかったとか、父親のように強くなりたかったとか
そのあたりの理由でどうしてもと言うものだから、絶対に音をあげないという約束の元、特別に修行を受けていたのだった。
最初は喜び、修行も楽しげに受けていた雪菜だったが
道場に通うからには手加減は無しだと、厳しい修行を重ねるうちに楽しさよりも辛さやしんどさを感じるようになった。
自分で言い出したとはいえ、まだ幼い少女にはそれらが相当堪えたようで。

「ほら、戻ろうっス。」

「……やだ。」

ご覧のありさまである。

「……」

むすっとしたまま黙り込んでしまった少女に、青年はやれやれといった表情を向けて。

「雪菜。」

軽々と、少女を自らの膝の上に乗せた。

「———！何すっ…」

「俺な、もうすぐこの村を出ていくんっスよ。」

「…え？」

「どうしてもやりたいことがあって、その為にはこの村をしばらく離れなきゃいけねーんス。」

「なんで、そんな急に…聞いてないよ。」

「そりゃ、今初めて言ったっスからね。」

はは、と笑う青年に、少女は拗ねるような、不満気な表情をする。
どうしてそんな大事なことを今まで黙っていたんだと、なんで教えてくれなかったんだと。
そんな風に悪態をついてから、少しだけ寂しそうな声で。

「もう、この村には帰って来ないの…？」

「はは、ちゃんとやりたいことやり遂げたら帰ってくるっスよ。心配すんなっス。」

「…ほんとに？にーちゃんはうそつきだからな。信用できない。」

「ひどいっスねぇ…。まーそっスね…雪菜が俺を超えるくらい強くなった頃に、絶対帰ってくるっスよ。」

「ほんとか…？」

「あぁ。だから、ほら。もう練習さぼっちゃダメっスよ。」

「…わかった。」

ぴょんと青年の膝の上から立ち上がり、くるりと向き直る。

「アタシ、強くなる。強くなって、にーちゃんが帰ってくるまで、とーちゃんと一緒にこの村を守るんだ。」

雪菜がそう言うと、雪宏はにかっと笑って、がしがしと頭を撫でた。

「よっし、んじゃお師匠のとこ戻ろうっス！」
「…うん！」


・・・・・・

「……」

早朝。まだ日が昇り始めたばかりの時間に目覚める。
夢の中で、懐かしい声を聞いた。
もう、長い間聞くことが叶わずに思い出せなかった声。
そんな声なのに、それが誰の声なのか…すぐにわかった。

のそのそと起き上がり、部屋を見回す。
うさ吉や他のエンブリオ達もいないらしかった。
そんな静まり返った自室で、小さな…とても小さな声で、少女は呟いた。

ぽつりぽつりと呟く少女の声は
誰の耳にも届くことはないのだろう。