或る過去の記憶。


草木もすっかり寝静まった夜々中。小さな部屋の中に、紙を捲る音だけが響く。

こちらへ戻ってきてから購入した座り心地の良い椅子に腰掛けながら、本を読む。最近の日課である。

一台のテーブルを挟んだ向かい側で、一人の少女が微動だにしないまま、窓枠の向こうに広がる星空を見つめている。

数年前までは一分一秒の浪費に頭を悩ませたものなのだが、この頃では日々を無為に過ごす事に楽しみを見いだせるようになりつつある。

目では羅列された文字達を追いかけながら、左手でテーブルの上に置かれた包み紙に手を伸ばす。中から一本の煙草を取り出すと、軽く咥えてから先端に火を灯す。

と、ふとそこで少女の視線がこちらに向けられている事に気がつく。

『……』

表情一つ崩さず、言葉を発さず。それでもその瞳は、常に疑問や興味を抱いたそれを見つめ続ける。それが人間の知識や常識という物に対しては赤子も同然である彼女なりの表現である事を私はよく知っている。

「……何かついているか？」

会話を切り出すように彼女へ話しかけながら、自分の頬や鼻をなぞってみる。

『いえ、はい。つけました。』

「……ん？」

要領を得ない返答に少しだけ頭を悩ましてみる。手に持った煙草を口元から外し、改めて顔を触ってみて——

そこで、彼女の視線が私の顔から外れていった事に気づく。

「……フム」

試しにと、手に持った煙草を頭上に持ち上げてみる。すると、追いかけるように彼女の視線も上の方へと向いていく。

「……これはな、煙草というんだ」

『タバコ』

火のついた煙草をそっとテーブルの上の灰皿に立てかけると、包み紙の中からもう一本をとりだして目の前に置く。

それを彼女に見えるように、ゆっくりと紙を分解して広げると、中から乾いた葉が溢れ出た。それを指さしながら語りだす。

「煙草の葉を乾燥させたものだ。これを燃焼させて発生した煙を吸う。」

『吸う。』

「そう。吸って、その味を楽しむための物だと思えばいい。」

『食べ物なのですか？』

「食べ物……とは少し違うな。」

『では、飲み物？』

「一般的には飲み物とも言い難いが……まぁ、一昔前では飲むとも表現されていたらしい。」

『はい』

改めて、灰皿に立てかけた煙草に手を伸ばす。相変わらず彼女の視線は煙草から外れない。

寧ろ彼女の期待は尚高まっているようにさえ見える。決して表情に変化があるわけでも、動きをみせたわけでもないのだが、私にはなんとなくだがそう感じる。これが慣れというものなのだろう。

「……吸ってみるか？」

『はい』

その返事を聞くなり、手に持った煙草の向きを変えて咥え先を彼女の方へと向ける。

「口をこちらに出してみろ。」

『はい』

「……いや、食べ物じゃあないんだ。そんなに大口を開けなくていい。」

『わかりました』

身を乗り出して、顔をこちらへと寄越す彼女の唇の隙間へとそっと煙草を差し込む。

「吸い込んでみろ。ゆっくりな。」

『はい』

それから、一瞬の間を以って。

『……っ！』

少しだけ目を見開いたかと思うと、少女は勢いよく後ろに身を引いて激しく咽出した。

「……ま、そうなるよな。」

その様子に思わずくつくつと小さく笑いながら煙草を少し回転させて自分の口元へと運び戻す。

『これは……駄目です。』

喉元を押さえながら苦しそうに呟く。相変わらず表情の変化は乏しいが、そういえば、こんな彼女の姿を見るのははじめてだった。

「……ま、慣れないうちは皆そうさ……。それに、こいつは人体には有毒なんだ。吸わなくていいもの、ということだな。わかるか？」

『……では、何故あなたはこれを吸っているのでしょうか？』

「これは特別製でな……魔力が包含されていて、吸引する事で僅かだが魔力を補給できる。極小ではあるがな。」

『なるほど』

「昔知り合った、とある魔術師のものを真似てみたんだが……どうにも私には上手くいかなかったらしい。良い物は作れなかった。」

『……』

「足りないのは、知識か技術か才能か……。ま、ともかく捨てるのももったいないからこうして使っているというわけだ。」

『素晴らしいと思います。』

「はは、そう思うだろ？」

淡々とした彼女の返事に、笑顔で答える。こんなやり取りが今では何よりも大事なものの一つであるのだから。人とは変わるものだと切に思うのだ。

ざぼんっ

がしっ！

ざばんっ