ある時の俺は世界を旅する若者だった。
ある時の俺は町でひっそりと商店を営む初老の男だった。
ある時の俺は旅芸人の一座に属する少年だった。
ある時の俺は学び舎に通う少女だった。
ある時の俺は大企業で研究に従事する女だった。

そんなことを多分何回も繰り返していたんだろうが、
どれもこれもイマイチ覚えていない。
「ああそんなこともあったかもしれませんね」ぐらいの大変薄味の記憶であって、
記憶自体も糊付けした本を無理矢理引きはがしたように
ところどころ白っぽく剥げている状態だ。
あまりにも杜撰な記憶忘却処置である。俺に人権があれば訴えれば勝てるでしょう。

いやまあそもそも人権があったら無理矢理記憶を抽出されて改竄されたデータだけになったりとか
肉体から最低限の生存活動の記憶以外すべて消し去った結果廃人同然にされたりはしないんですけどね？

…もしかしたら、そんなことがあったことすら実の所作られた記憶なのかもしれないと勘繰りだすが、
そこまで行くとキリがないのでやめておきたい。怖い。

で、まあそんな目にあいながら俺はもうこんなことを何年だか何十年だか、
もしかしたらもっと長いかもしれない。続けてきたわけなんだが。

自分でもおぞましいことにそういった日々を許容し続けてきたという現実がある。
許容とかしないとかそういう以前に、他の選択肢が今まで存在しなかったってのは前にも言ったんで割愛する。

まあそうやってボロ雑巾か消耗品か、そんな具合で消費されるだけだった俺に
役割への「拒絶」という選択肢がここにきてやっと発生した。

これは向こうの方からするとひどいバグです。完全に想定外の挙動です。
極端な喩えで言うと牧羊犬に羊の番を任せたら流暢な言葉で
「嫌です」と答えて2足歩行で羊と野球やりだすぐらいのイレギュラー。
いやごめん流石にこれは俺も何言ってるか自分でわからなくなったわ。無いわ。何が言いたいんだ俺は。

まあ本来やるはずのない行動なのよ、俺がこうしてペラッペラと身の上とか出身のこととかお前に話してるのは。

じゃあ、なんでここにきて突然俺がこうなったかという話なんだが。
多分。あくまでも俺の想定なんだけど、お前が原因だと思うのよね。

…お前よお前。なーに不思議そうな顔してんの。ここお前しかいないでしょ。
風早。

そうお前。お前と同化してるのが原因だと思うんだよね。

さっきも言ったけど、基本的に俺らは目的を果たすために、
ある程度決まった行動と思考しかできないようにされてるわけよ。
それで完結してる状態だったんだが、そこにお前が加わったことで状態が変化したわけ。

お前が見た通り、俺にも僕にも自身を構成する過去の記憶とかそういったものはない。
それを何故と思うことはありえないし、不思議に思うことはないように設定されている。
お前視点ではそれは明らかに不自然な訳だ。
お前はお前の経験してきた過去があるし、それに伴うお前の思い出だってある。
つまりお前は「自分が何者か知っている」し、「それを思い出すことができる。」

俺らはお前と同化することで、「人には過去があること」を知り、
「何故自分たちにはそれが無いのか」という疑問に気付いてしまったわけだ。

生まれてからずっと目を塞がれて生きてきた人間が、
突然目の覆いを取られて、目に光景を映すとこんな気分なんじゃないかと思うよ。俺は。

知ってしまったからにはもう遅い。
俺は今更また全てを失くしてまであの世界へ帰ろうだなんてもう思えない。

単刀直入に言うと、俺は今すぐメルンテーゼから離れてどこか遠くへ逃げたい。

俺が来ているということはメルンテーゼもあの世界に狙われているということであって。
あの世界に狙われているということは、俺があの世界に見つかる可能性がある。
あの世界に今の俺が見つかるということはー。

まあそりゃお前。俺いわば密偵だもん。思いっきりメルンテーゼ的には侵略者だもん。インベーダーだもん。
でー。それがー。逃亡して—。メルンテーゼとか他の世界に万一あの世界のことをリークしたらってなるとー。

ね？

あの世界にとって侵略云々は存亡そのものに直接関わってくるから、しくじれんわけよ。
だから俺らみたいなんを送って念入りに調査して、内側から崩して行ったり、
技術面なんかで圧倒的優位を確保してから事を進めてたんだけど。
それができなくなったら割とヤバいねあの世界！
割と簡単に滅ぶかもしれん。規模は大したことないし。

俺は知ったこっちゃないけど向こうはそうでもないからなー。
そうだなー捕まったら多分処分されますね俺。
ヘタなこと方々にバラしまくる前にやっちゃいましょうみたいな。
前回の俺はどうしようもない反逆者でしたが、今度の俺は間違いなく幸福で完璧ですみたいな。

……逃げたいっていう理由わかってくれたでしょーか。

とはいえ現時点では俺にそこまでの主導権や決定権はない訳です。
だからそれも含めて聞きたいんだよね。

お前はこの後どうするのかって話。

俺は一揆が終わったら…というか場合によっちゃ終わる前にバックれるつもりだけど。
僕の方はどうか知らんし。というかそうでした。
僕の方にもこれ共有しておかないと駄目だわ。うぇーいめんどっちい。

あ、スマン。
で、お前の目的は一応一揆の完遂と、俺らからの分離だと思うんだけどさ。
……正直これ分離したところでアカン気配がするんだよな。
メルンテーゼには俺だけじゃなくて、俺と似たような奴…っていうかもしかしたら
別の俺かも知れん。俺Mk-Ⅱ。
…が、送り込まれてる状態なんだよね。

そいつとかに見つかったらお前危ないと思うよ。
理由は前述。あの世界のことを知ってしまっているから。

……じゃあバラすなって？
無理でーす！！どの道このまま同化が進行したらお前も知るんだよいつかァ！
遅いか早いかの問題です！だったらまだ状況の解説とモラトリアムあったほうがええやろ！！
俺は悪くない！！

……同化がさー。解消される保証もねえんだろ？
で、現に徐々に進んでいってる訳だ。

もしも。
もしもよ。

同化が進行しきってしまったあと。
もう分離することなどできなくなってしまったとしたら。

お前は、というか俺らは、どうするんだろうなって。
そういう話さ。