馬の嘶きが聞こえれば、すぐさま力強い蹄の音が通り過ぎる。
ガタゴトと音を立てながら砂埃を上げてゆく馬車の中では、労いの会話が交わされる。
アジュガもまた、見知らぬ誰かに話しかけられ、ありがとう、おめでとう、の言葉をかけられることが、ここ数日で増えた。
お互い相手を知らない身でも、ここにいる以上、一揆で活躍した「誰か」の一人には変わりない。
一人ひとりに物語があり、生き様があった。
顔も知らない相手に、自分のことを覚えていてもらえるなどとは、アジュガだって少しも思ってはいない。
それでも、ほんの少しでも自分が生きていた痕跡が残せるならと、アジュガも相手を労い、頭を垂らすのだった。

ここしばらく大賑わいだった街も次第に落ち着きを取り戻し始め、次に活気づいたのは街道だ。
祝宴は日常へと以降し始め、一揆のために王城近くまでやってきた者たちも、故郷へ帰るべきときがきた。
海へ山へ、あるいは彼らが本来生きるべき分割世界へと、集められた人々は散っていった。

異界人の影響で、軽トラだのなんだのという特殊な乗り物は、以前と比べて見かけるようになったものの、メルンテーゼの交通の要は、やはり未だに馬車が支配している。
御者たちは大忙しで、街や村を往復しているが、彼らにとってはここ一番の稼ぎ時でもある。
汗水を流しながら、いかにも充実しているというふうな笑顔を浮かべて、英雄たちを故郷へと送り届けていった。
アジュガたちもまた、深緋が丘からここへ出てくるときには、馬車を利用した。
当然帰る方法も馬車になるが、あの辺境の土地まで馬を走らせてくれる御者は、そう多くは無いだろう。
人の流れがあるうちに馬車を捕まえたい気持ちはあったが、丘へ戻るにあたり、アジュガにはまだ済ませていないことがあった。
—エンブリオたちとの契約終了である。

一度は丘まで連れ帰るか悩んだりもしたものだが、なにしろあの場所は人がいない。
そして自分は遅かれ早かれ、寿命よりはずっと早く死んでしまうことが決まっている。
同行させてたどり着く場所が、次の契約者も見つからないような場所では、彼らにも迷惑だろう。
幸いにも今は、ここから去らずに過ごす者も多いし、一揆衆でなくとも、彼らに商売を持ちかけにくる人間だって集まっている。
時期と場所としては、ここいらが最適だろう。

ならば早ければ早いほうがいい。
アジュガは契約したエンブリオを召集すると、普段の調子で経緯の説明と、契約終了の宣言を行った。
その反応はというと、三者三様。

別にしんみりとした別れを望んでいたわけではなかったが、あんまりにもあんまりなんじゃないかと。

それでも頭を抱えているのはヴィツだけで、アジュガはむしろ、かけてもらえた言葉を喜んでいるようだった。
そもそもよく考えれば、悪魔と死体に死を告げたところで、こうなるのはある意味、自然な流れだ。
むしろこの状況でもっとも異常なのは、アジュガでは？
諦めたように頭を上げると、他のエンブリオは皆一様に、突然の契約破棄の知らせと主人の死に動揺を隠し切れないようで、本来こうなるべきだと想定していた反応が得られたことに、ヴィツは一人安堵するのだった。

それでも自分を除けば、あの双子と死体が一番の古株だ。
自分やカリンカランがいなければ、この一団はどうなっていたことか。

そう言うと、クェンティンが無駄に洗練された動作で、懐から名刺を取り出す。
その向こうに見えるセレステの顔が、相変わらず呆れている。
無言の批難を送るセレステを気にもせず、カチッとした動作で名刺を手渡してくるクェンティンから、それを受け取る。
—「悪魔ギルド　ずんどこカメレオン」という、意味のわからない組織名の横に、メルンテーゼではない世界名が刻まれていた。

そんなことを、涼しげな表情で言う二人を見て、ヴィツはますます頭を抱えた。
アジュガはというと、名刺というものが分からなかったので、とりあえず不思議そうにその場でぐにぐに曲げていた。
そしてそのままサンインへと手渡され、素敵な紙飛行機として名刺は生まれ変わった。
とりあえずクェンティンは凄い落ち込んだ。

そのままセレステは、視線をサンインの方へと移す。
サンインがこちらに気づくと、普段通りに表情は変えずに、彼女のもとへと歩み寄った。
もはや這いつくばって、いじけモードに入っている足元の実兄をリアルに踏んづけて。

名刺で作られた紙飛行機は、愛らしいが、小さすぎて空は飛べない。
退屈な紙飛行機よりは、遊びなれた姉のような存在であるセレステの関心がこちらに向いていることがサンインには嬉しいことで、作られたばかりの紙飛行機は、すぐに関心をもたれなくなった。
とりあえずクェンティンは再起不能になった。

そう言うと、サンインはニコニコと笑って、セレステを抱きしめた。
サンインが誰にでも懐っこいのはいつものことだったが、その回答がセレステには意外なようだった。
悪魔といえども、自分は死者ではない。
死者の考えは、よく分からない。

これでだいたいの話はまとまった。
アジュガはその後他のエンブリオにも希望を聞いて回ったが、皆ここで契約終了で異議は無い、という答えだった。
ヴィツたちと同様に妖精であるブラウニーやキキーモラには、若干の迷いもあったようだが、彼女たちは野山に生きる精ではなく、人と共にあることで能を生かせる、街の精である。
ザントマンとして、同様に人と少しの関わりを持っていたヴィツに諭され、彼女たちも残ることを決めた。
こうして、アジュガについて丘に戻るエンブリオは、ヴィツだけとなった。

それからは早かった。
最後の晩を全員で共に過ごした後は、翌朝早朝に異世界へ戻る双子を見送り、朝もやの中から蹄の音をこだまさせてくる朝一の馬車に乗り込んだ。
さすがにこの時間帯の、辺境地に向かう馬車に乗り込んでいる人間はまばらだ。
王城近くで過ごした余韻に浸る暇もなく、荷の軽い馬車は街道を飛ばしてゆく。

久しぶりの早起きをしたアジュガは、ヴィツの隣で眠りこけていた。
よくもまあこの娘が、馬車に乗って移動ができたものだと思ったが、一揆の情報は多くの人間に共有されていた。
当時は、一揆がしたいとでもいえば、連れて行ってくれる人でもいたのだろう。
丘での暮らしが長かったこの娘にとって、馬車の中がもっとも、人間社会を身近に感じられる空間だったのかもしれない。
奴隷として馬車に揺られていた頃も、心臓を失ったときも、彼女は馬車の中にいた。
おそらくこれが最後の眠りになる。
この揺れが、彼女にとって心地よい揺りかごとなるのならば、それもまたいいのかもしれない。

などと考えていた最中、ヴィツは強い花の香りを感じた。

またまたあ、とアジュガの声でベルエトワールは笑う。
彼もまた、子供だったのだと思う。
出生を呪い、他人を殺めてまでも自分の生をはっきりさせたかった彼だが、最初から、他人との交流には飢えているようだった。
現に今も、用事もないのに自分を嫌うヴィツに話しかけている。
もっと運命がちゃんとかみ合っていれば、彼もカリンカランとは、むしろ仲良くやれたのかもしれない。

ふわふわとどうでもいい話を一方的に続けるベルエトワールの声の調子が、不意に落ちる。
王としての羽化が間近になったせいか、初めてその現実に直面したかのように。

そう言いながら、ベルエトワールはため息をつく。
ため息をつきたいのはこちらだと、ヴィツは舌打ちをしながら、アジュガのものである横腹を軽く小突いた。
視線は彼と合わさずに、告げる。

それじゃあね。
そう言い残すと、独特の気配が消え去った。
アジュガに戻った彼女は、相変わらず気の抜けた寝顔を浮かべて揺れている。
そこからは数時間、馬車に揺られるばかりで特に変化もなかった。

町並みが続く景色が、緑の多いものに変わり始めると、遠景に丘が見えた。
話に聞いたような真っ赤な色ではないが、花が咲いている様子が見て取れる。
おそらくは、あそこがその場所なのだろう。
その頃にはアジュガも起きていて、その景色に眼を輝かせた。
馬車を降りると一直線に走り出し、その一歩一歩で残りの時間を削りながら、なお愛しいその丘へと走り寄った。


＊　　　＊　　　＊　　　＊