そよそよと頬を撫ぜる夜風が気持ちいい。
最早鳥たちも寝静まり、風の音と虫の声だけが聞こえる夜空の下に、ヴィツはいた。
眠りの短い彼が、夜の番をすることはいつものことで、皆の寝顔を見ながら夜を過ごすのも、いつものことだった。
普段ならば安らかなその寝顔は、一様に疲れ切っている。
自分自身、眠りは少なくてすむたちであるとは思っているが、精神的な疲れが酷い。
皆と同じように、眠りこけて一時的にでも現実を忘れることが出来れば、とも思う。


カリンカランは死んだ。死んでしまった。


それがどうしてなのかは分からない。
ただ、その事実だけでも、彼らの心を折るには十分すぎるほどだった。
特にアジュガの荒れようは酷く、体力を使い果たして眠りにつくまで、ほとんど叫びのような泣き声をあげて突っ伏した。
彼女がカリンカランに最後に投げた言葉は、カリンカランを非難するものであった。
後悔しているのだろう。
それでも、今となってはその叫びも届かない。

次に消耗している様子が見えたのはセレステだった。
彼女は責任感も強く、体の小さなヴィツよりは効率的に動けることから、捜索時も最も能動的に動いていた。
出る言葉は突き放したものが多いが、情のない女ではない。
ずっと無言のまま、思いつめたような顔をして、カリンカランが没した事実を噛み締めているようであった。

ヴィツ本人も、状況に困惑していないわけでも、落ち込んでいないわけでもなかった。
それでも彼は妖精であったから、恐らくダメージは一番軽度なものであった。
妖精は死なない。
正確には、自然の発現である彼らは、司る自然が在る限りはいずれ蘇る。
ヴィツ自身、これほど特殊なものではなかったが、過去に何度か命を落とした経験があった。
だからいずれ、待ち続ければカリンカランと再会できるという希望が持てていたのだ。
それが何年後か、何十年後か、何百年後かは分からない。
人の時を生きるアジュガに再会を断言することは出来なかったが、それでもと、ヴィツはハハコグサの種袋を手渡した。
それが彼女の心を少しでも慰めるなら、それは彼女が持つべきであったし、何より彼女は花守であった。
妖精の宿る野の草を守る役割を担う彼女に、渡すべきであろうと思った。

ダメージの一番小さな自分が、再会の希望の持てる自分が、慌てる姿を見せてはいけない。
そう思いながら昼は平静に過ごしてはいたが、喪失感が無いなどと言うことは、当然無い。
彼女の声や手触りを懐かしむように、残された羽を手に持ち眺める。
風に飛ばされぬよう、根元をきっちり掴んで。
無口な自分の手を握り締めながら、話しかけてきた笑顔も、今は遠い。

ふいに、背後に気配を感じる。
誰かが起きたのかと思ったが、誰の気配とも一致しないような感覚を覚えた。

振り返る。
そこにあったのは、焚き火に照らされながら夜空を眺めるアジュガの姿だった。
異質な虹色の瞳が煌々と輝き、こちらと視線が合うと、それはにこりと微笑んだ。

隠すつもりもないんだけどね、と付け足しながら、アジュガは笑う。
ヴィツはというと、自分の言葉が通ることに内心驚きながら、目の前の人物を見つめる。
その意図を感じ取ったのか、彼は笑顔で名乗る、ベルエトワールであると。
カリンカランにしたのと同じように。
その答えに、さほどの驚きは感じなかった。
アジュガの中に潜むアジュガでは無いものといえば、話に聞いていた彼しか考え付かなかったのだから。

それよりも。

ある疑念が渦巻いて、彼は拳を強く握る。
あの夜、あの場所にはアジュガとサンインしか存在しなかったはずだ。
そこに今、三人目が加わったということになる。

そう言いながら、ベルエトワールは頬杖をつく。
それでもそこに困った様子などはなく、とろんとした表情で火を見つめ続けるだけだ。
対するヴィツも、そこに強い感情を示すような様子は見せなかった。
分からないからゆえではない。
先ほどの彼の反応で、既に心の中では確信を持っていたから、惑う必要が無かったのだ。

ヴィツは少し俯いて、それから沈黙する。
それは否定と同じだった。

今の彼にとって、最優先すべき事項は、アジュガのエンブリオである自分を守ることだ。
ただでさえカリンカランが欠け、戦力的にも精神的にもアジュガは崩れかけている。
自分がさほど強いエンブリオでない自覚はある、が、だからといって自分まで欠けていいわけではない。
それに仮に怒りにまかせて彼に立ち向かったところで、カリンカランも敗北したのだ。
似たような身体能力を持つ自分が挑んだところで、結果は同じことだろう。
複雑な気持ちを抱えながらも、冷静なままでいることがヴィツには出来た。
それがいいことなのか、悪いことだったのかは誰にも分からない。
ただ彼はカリンカランよりも幾らか客観的であったし、幾らか黙り慣れていた、それだけのことだ。

ベルエトワールは再び語り始める。
カリンカランにしたときと同じように、自分の生い立ちと理想を。
そして、自分の真の誕生がアジュガの死因になるであろうことを。

空気は何も変らない。
ベルエトワールは静かに微笑み、ヴィツは黙ったままだ。

そう言われ、ベルエトワールは考え込む。
どうやら自分でもそれが何故か、よくわからないようだった。
ぽんぽんと口から言葉を出す人物であるようには見えたが。
さすがにヴィツも呆れ返る。

少しばかりの時間を使って、彼は結論を出したようである。

朝日が昇り始める。
あと数時間かすれば、目覚めの時間を迎えまた一日が始まるのだろう。
それに反して、ベルエトワールはううんとのびをひとつした。
眠りの浅くて済むヴィツと違い、彼には眠りが必要であった。
夜通し起きていたのだから、そろそろ眠りにつくと、彼は礼を述べた。
ヴィツはそれを聞いても、相変わらず黙るまま。

そして、彼は横になると、静かに『彼女』へと戻った。
もうどこにもベルエトワールの気配はない。
いや、確かに彼女の中には存在しているのだろうが、表にその気配は、微塵も。

複雑な夜だった。

彼の言う通り、彼を否定すべきだったのか。
それをしたところで、カリンカランが今帰ってくるわけではないことも、誰よりも分かっていた。
おそらく対話で終えることが、結果としては最良なのだろう。
そう信じてはいるが、これで自分は主人の命が潰えることを認めたエンブリオだ。
—相当な不良だな、と自嘲気味に笑う。

ヴィツもまた静かに毛布の端へと包まった。
皆が起きるまでの数時間、彼に必要な僅かな睡眠を得るために。
夜の出来事とカリンカランの思い出を、夢の向こうへ追いやってしまうために。