カリンカランからすれば、奇妙という一言以外ではこの状況を表せなかった。
アジュガの心臓を務めていた、未知の妖精。
まだ見ぬバイカウツギの精。
それが今、アジュガの背格好そのままで、ふんふんを鼻歌を口ずさみながら、機嫌良さげに川に入っている。
少し凹みのある薬缶で小川の水を掬えば、混じった星屑がちらちらと底で光る。
そして薬缶を焚き火にくべると、湯気で濡れた掌を暖める。
諸々の作業は、寧ろアジュガよりも手際が良いように見えた。

カリンカランはその様子を、呆気に取られて何も言えないままに眺めていた。
尋ねたいことや、疑問や、敵意のようなものもずっと渦巻いていたはずなのに。
彼があまりにもナチュラルにその空間に居座っていたために、そんな諸々をぶつけるタイミングを、全く見出せずにいたのだ。

湧き上がった湯をコップに移し、ベルエトワールはくい、と一口飲んでみせる。

君も飲む？
そう言いながらベルエトワールは薬缶のフタを開ける。
何かおかしなものが入っている様子は無い。
カリンカランは湯気の中に、岸辺に流れ着いた葉をかざして、そこから生まれる水滴で喉を潤した。
そこでやっと、対面しているベルエトワールに一つ目の疑問をぶつける機会を得たように感じた。
眼前のベルエトワールはというと、何も言わずにその澄んだ虹の瞳をこちらへ向けている。
さも、聞きたいことは聞いてよいという姿勢のようで、それに乗っかるのが少し、悔しい気持ちはあった。

これは一応、確認のため。

一目見た瞬間から、アジュガの身体が偽者ではないことは分かりきっていた。
その背丈も、声も、髪の質も僅かに香るバイカウツギの香りも、今まで一緒にいたアジュガそのものだったから。
眠っているだけの一言に、カリンカランは肩をなでおろす。
アジュガは無事だ。
もう、二度と帰って来れない場所に行ってしまったわけではなかったのだ。

その様子も、ベルエトワールは楽しそうに、アジュガの体で見下ろしていた。
彼は自分との対話を楽しんでいる風で、敵意のようなものは一切感じられない。
本当に対話のためだけにここに来たのか。
ならば何故今まで、その姿を現すことがなかったのか。
アジュガを、騙すようなまねをして契約を結ばせたのか。
本人が目の前に現れてからは、今までの数倍の速度で憶測や混乱が脳の中を飛び交い、わけがわからない状態で。
そして結局、悔しいながらに眼前の人物に、答えあわせを求めることとなる。
まずは、一番聞きたかったことを。

それを聞いたベルエトワールは、白湯をコップに注ぎなおしながら、少し意外という風に瞳を丸め、カリンカランを見た。
しかしそれにも特に動じることも無く、コップの中身を飲み干し終えると笑って見せた。

言うと、ベルエトワールは少し考えるそぶりを見せる。
考えて、少し経過してから合点がいったようで、「ああ」と一言声を漏らした。

そう言って、ベルエトワールはひらひらと手をふり、カリンカランを静止する。
それを受け、カリンカランも気まずそうに、元の場所へと座りなおす。
朝もやは晴れ始め、快晴の空が頭上に見える頃になり始めていた。

いい天気だ。

カリンカランはこくこくと頷く。
確かにそれは自分がアジュガに話した内容で、それが切欠で彼女とは口論になった。
こんな些細な会話まで知られているのだとしたら、今までのアジュガとの交流は、全て傍受されていたのだろうか。
—考え始めると少々、気分が悪くなってきたが、今はそんなことを考えている場合ではない。

ベルエトワールはその頷きを受けて、ふっと笑った。
その余裕の笑みで、彼の語る情報は信じてよいものだと、何となく確信する。
あれは出鱈目を喋っているのではない、確かな情報を得ている者の優越の笑みだ。

アジュガは「健常だが、心臓だけが無い状態」なのだと、ベルエトワールは言う。
血流さえ送ってやれば一般的な人間と同じように生きてゆける。
それにより生命力も発生する。
それをベルエトワールは得ることで契約は成り立っていたのだという。
彼は言った、相互扶助のような関係だと。

ここで一つの疑問が浮かび上がる。
それでは、人間でないアジュガは「何者」なのか。
それの疑問を彼にぶつける前に、ベルエトワールは自ら語り始める。
全てを話すを言ってこの場を訪れた彼にとっても、核心である情報の一つだったのだろう。

カリンカランは首を傾げる。
ならば結局、何だと言うのか。

そう、意味のわからない答えを出されるだけであった。

カリンカランは首を振った。
オベロンの物語自体は、ポーリーンに読み聞かせた記憶がある。
しかし、当時は様々な本を読み聞かせしていたし、そんな一冊一冊の詳細までは、覚えていなかったのだ。
あの頃のカリンカランは妖精なんかよりも、ずっと人間の暮らしの方が密接な存在で、興味が持てなかったこともあるかもしれない。

ベルエトワールは語る、かの妖精王の物語を。
彼の生まれには諸説あり、はっきりしたものというものはあまり存在しない。
昔ながらの物語にはありがちな現象で、物語と民話が交じり合い、何が本当か解らなくなるのだ。
そんな中で一つ、はっきりと個人名の出された物語がある。

父親はユリウス・カエサル、母親はモーガン・ル・フェイ。

オベロンの母といわれたモーガンは治癒に秀でた魔女とも、湖の妖精とも、弟の命すら狙う妖女とも言われる。
ファタ・モルガーナ。はっきりとしないのだ。
しかし、モーガンの出自についてははっきりしており、彼女は純血の魔女や妖精ではない。
人の血の混じる者が、妖精の王を産んだのだ。

そう宣言された瞬間、何かが繋がったような気がした。
妖精王を産むことのできる存在ならば、妖精王と同等の能力を持っていたとしてもおかしくは無い。
あの夜、ヴィツと会話することが出来たのも、なんてことはない。
ベルエトワールに借りた能力ではなかったのだ。
あれが、アジュガの素の能力だったのだ。
妖精語を理解できることも、妖精のまじないを見破る能力も。

ベルエトワール曰く、今は彼女の体内に埋まることによって、彼女の能力の発現を防いでいるのだそうだ。
一般的な上位妖精よりも、理解できる範囲が少なかったのは、そのため。
しかしその支配も、ベルエトワールが眠っている間には切れてしまう。
アジュガが真夜中だけヴィツと話せた真相。
それは、ベルエトワールの能力支配が切れていたからだと、彼は語る。

どういう意味なのさ。
言いかけて、やめた。
先ほどからの話の流れを整頓すれば、おのずとそういうことになる。
カリンカランは仰天した、わざわざそんなことを目的に、そんなことを考える奴が存在するのかと。
驚いたようにベルエトワールを見やると、彼女もカリンカランが理解したことを把握したようで、小さく笑う。

彼は手袋を外すと、アジュガのものであるその身体の下腹部を、ぽんぽんと叩いた。

アジュガは美しい娘だった。
愛おしげにその箇所を撫でるさまは、まるで絵画の聖母のようであった。
それでもカリンカランは、その様子から、とても禍々しいものを感じていた。
その胎は自然にそれを宿したのではなく、外から入り込まれ、騙されるようにそれを育ててきたのだから。
寄生虫じみたものを見るような目で、カリンカランは彼を見た。

あるものは、いつもと同じようで、いつもと違う、少女の笑顔だけだった。