もっと高く、遠くへ。
　羽ばたき続け、天より堕ちる。
　地の底で見上げた空は小さく、頼りない。
　あんなものを目指した理由は、とっくに失っていた。

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　ハロルド・フロックハートは、常になく忙殺されていた。
　元より商会を率いる身。暇を感じるような生活とは縁遠い。
　それでもなお忙しいと感じる量の仕事に追われ、屋敷の外に出る暇もない。
　こうなったのは、彼の自業自得でもあるのだが。

　暫定議会への参加や、アシリアイノ率いる部族の討伐に、貴族間の利害調整。
　ハロルドが忙殺されている主な要因は、この三つだ。
　暫定議会への参加に関しては、ひとまずの条件をまとめた後は部下に投げている。
　当座は一揆衆への支援体制をどうするかぐらいで、部下に任せてしまっても問題ない。
　ただし戦後を見越して、大商人や有力貴族と書簡のやり取りをすることは忘れない。
　これが厄介なところで、一度のやり取りにも膨大な下調べが必要になるのだ。
　勢力として必要な支援を惜しむつもりはないが、商人として利益を得る必要もある。
　そのためには何の裏付けもなく、軽々に約束などするわけにはいかないのだ。

　アシリアイノ率いる部族の討伐に関しては、もう後始末の段階だ。
　複数の貴族による討伐軍を派遣し、討伐そのものは成った。
　しかし通常の戦争と違い、これは勝ったところで得るもののない争いだ。
　兵に犠牲は出ているし、軍を動かすだけでも金がかかる。
　その損失をどう埋め合わせ、誰にどう我慢してもらうか。
　実のところ、この後始末こそがむしろ本番と言えるのだ。

　この件に関して、フロックハート商会は多大な出費を強いられている。
　計画通りだとはいえ、部族を引き込んでしまったのはハロルドにも責任があるのだ。
　知らぬ存ぜぬを決め込むよりも、非を認めて金を出してしまった方がマシである。
　そのためハロルドは、出兵した各貴族に妥当な額を支払うつもりであった。
　謝罪の意味も込めたそれは、実際にかかった費用よりも上乗せされたものだ。

　しかしそれでは納得せず、もっと寄越せと主張する貴族も存在した。
　これも想定内ではあるのだが、だからといって面倒でないわけがない。
　相手はこの機に、少しでも多く毟り取ろうとしているのは明白だ。
　ここで面倒だからと要求に応じてしまえば、悪しき前例になってしまう。
　ハロルドは暫定議会を支援するつもりはあっても、財布になるつもりはない。
　そこで今は書簡での交渉を重ね、時間稼ぎに出ている。
　相手が条件に納得しなければ、そもそもハロルドの提示した額も支払われない。
　こうすることで、相手の財布が尽きるのを待っているという状況だ。

　最後に貴族間の利害調整だが、これが最も厄介だと言えるだろう。
　何せ気高い志で参加した貴族もいれば、利益だけを目当てに参加した貴族もいる。
　しかも彼らは、元を辿れば貴族社会において違う派閥に属していた者だっているのだ。
　これで貴族間の意見が統一されるわけがない。
　そこでハロルドは、そんな貴族達の橋渡しとなって地道に交渉を重ねている。
　妥協点を探り、様々な条件を提示することで、ひとまず手を組める程度にはまとめ上げる。
　口にすれば簡単なことだが、これほど厄介なことはない。
　誰に頼まれたとしても、こんな役回りは二度とするものかと思うほどである。

（そもそも、だ。貴族を取り込むのは当然だが、根回しが甘過ぎる。
　俺がいなければ、どうまとめるつもりだったのだ）

　そんな愚痴を思考に浮かべながら、彼は書類と格闘し続ける。
　彼自身、半ば上手く騙されたという自覚はあったのだ。

　暫定議会はサイラス・ウォーカー卿を皮切りに、幾人かの貴族を味方につけた。
　これは慎重を期して、水面下で進めていた交渉が実った結果だろう、とハロルドは考えていた。
　他にも表立っていないだけで、密かに協力を取り付けた貴族がいるだろう、と。
　それが蓋を開けてみれば、そんなことはなかった。
　交渉中の貴族はいても、それさえ微々たるもの。
　表立っていた数人の貴族だけが、暫定議会が味方にした貴族の全てだったのだ。

（この豪胆にもほどがあるハッタリは、ラッセル殿あたりの手口だろう。
　いつからかは分からんが、あの御仁はこうなることを見越していたのだろう）

　暫定議会の代表であるラッセル・ヨークを思い出す。
　商人としての才覚で劣るとは思わないが、やはり経験では及ばない。
　ラッセルはおそらく、ハロルドを——フロックハート商会を狙い撃ちにしたわけではない。
　たまたまフロックハート商会が相応しかったから、その支持基盤である貴族ごと取り込もうと画策したのだろう。
　他に貴族と繋がりのある勢力があれば、そちらを取り込んでいた可能性もある。

（まあいい、まんまと騙された俺が間抜けだっただけの話だ。
　今は負けを認め、いくらでも走狗になってやろう）

　だが、とハロルドは思う。
　一揆が終わり、新たな国が興った時。
　それこそが開戦の合図である、と。

（現状を奇貨として、せいぜい俺も勢力を広げさせてもらおう。
　新たな国が興れば、遠慮する必要もない。
　それも予想通りだろうが——競わせてもらうぞ、ラッセル殿）

　商人の戦場は、平時においてこそ花開く。
　ハロルドは未だ見ぬ市場を夢想し、静かに牙を研ぐのであった。