酷く体が重く、節々が痛い。
ガンガンと脳に響くような頭痛に目を覚ませば、ぼんやりと霞んだ視界の先に見知らぬ天井が見えた。



「——…」



　どこだ、ここ…という疑問の言葉は声にならず、乾いた口の中で舌がもつれて咳き込んだ。
　ふと、何かが動く気配。



「目が覚めた？」



　柔らかな女性の声には効き覚えがある。
　ゆるりと首を動かせば、花魄のエンブリオ——朽葉がベッド脇へと歩いてくるところだった。
　盲目のはずの彼女は何処にもぶつかることはなく、ベッド脇の小さな椅子に腰を下ろすとカサネへと手を伸ばす。
　ひやりとした手が額に触れた。



「……まだ熱が高いわね。」

「ここ、は？」

「森林の中の、私の住処よ」

「朽葉の…？」

「貴方、昨日の夜から酷い熱が出てるのよ…野宿させるわけにはいかないでしょう？」



　ルブルムを呼んで運んでもらったのだと朽葉は言って、カサネの額から手を離す。
　見回せば、カサネがいるのは小ぢんまりとした猟師小屋のような場所だった。
　朽葉の背後に小さな暖炉と、薬草と思われる乾いた植物がいくつか吊るされたキッチンらしきものが見える。
　寝かされているベッドは簡素ながらも清潔に保たれていて、朽葉と同じ柔らかく甘い花の香りがする。



「水分は摂れそう？」



　頷けば、朽葉は少し待っててといい置いて席を立つ。
　その際に、背後の誰かへと声をかけた。



「ちょっと手伝って。自力で起き上がるのはまだ無理そうだから…」

「うむ…」



　聞き覚えのある男の声はアニマのエンブリオの片割れのものだが、視界に入ってきたのは見慣れぬ浅黒い肌の男だった。



「大丈夫か、主殿」



　蜂蜜色の眼と、額にある紅の眼……落ち着いた口調の聞き慣れた声。
　心配そうに見下ろす顔は知らないが、その気配には覚えがある。



「…ル、ベド？」

「ああ。……そういえば、この姿を見せたのは初めてか」



　掠れた声で恐る恐る名を呼べば、あっさりと首肯を返された。
　背中の下に腕が差し入れられ、ゆっくりと上半身を起こされる。
　そのタイミングを待っていたかのように、朽葉が木製のタンブラーを持ってきた。
　口元に近づければ、何の木かは分からないがふわりと爽やかな香りがする。
　中に入っていた湯冷ましを半分ほど飲み干してようやく人心地着いた。



「ニグレドは？」

「はぁ〜い？いるよ〜ぉ？」



　傍らの男へと問いかけたはずが、朽葉の後から返事が返される。
　朽葉が苦笑しながら体をずらすと、胡座を組んだ脚の間にすり鉢を抱えた男がヒラヒラ取っ手を振っていた。
　顔付きも体付きも、人の姿となったルベドに瓜二つなのだが……表情がチャラい。
　あ、こいつ間違いない。ニグレドだ、と妙な納得をしてしまう。



「……主殿、なーんか失礼なコト考えてるデショ？」

「あ、いや…」

「ふーんだ。イイデスヨー…どーせ俺は兄弟に比べれば軽く見えるし？」



　ぷいとふくれっつらで顔を背ける仕草は獣の姿でこそ可愛げがあるのだな、と初めて知った。
　人間（しかも知り合いの忍と大差ない高身長の男）の姿でされるとなんというか……心が平坦になるというか、凪ぐというか。



「はいはいはい。遊ぶのは体調がもう少し回復したらね」



　手の中のタンブラーを朽葉に取り上げられ、ルベドに元通りベッドの中へと戻される。
　ふ、と息を吐くと額に濡れた布が載せられた。



「……風邪を引くと言ったのに、人の話を聞かないからよ」



　呆れたような朽葉の小言が耳に痛い。
　昨日、ずぶ濡れになって戻ったカサネは疲労困憊で、何もかも放り出してしまいたいという欲求に従った。
　かろうじて濡れた服を着替えた他は、髪も乾かさないままで双頭の獣を布団代わりに泥のように眠ったのだ。
　風邪を引く、といった朽葉の声が聞こえる頃には、既に半分以上眠りに入っていたために生返事を返したかも怪しい。
　そして、夜中にどうやら熱を出したようだ。

　肉体的な疲労以上に精神的なものもあるだろうという自覚はあるが、それが分かっていても容易に解決するような事案でもない。
　自分で決めて、自分が成した。
　名も知らぬ誰か。
　たすけてと言った声なき声を、その目を、自分は刃で拒絶したのだ。
　クレノやルベドやニグレドの主であった自分の祖先、彼が生きていた頃よりもずっと昔から続いていた血族の業。
　
　守るために、他者を殺すということ。

　後悔がないかと問われれば、全くないとはけしていえない。
　あれが正義かと問われれば、頷く事は出来ない。

　それでも。
　自分の知る誰かが、その牙にかかるのはどうしても嫌だったから。



「こら、カサネ」

「うっ?!」



　ぺしっと布の上から額を軽くはたかれる。
　ビクッと肩を揺らせば、すぐ傍で朽葉が溜息を吐いた。



「熱を出しているときに考え事をしても、鬱々とするだけよ」

「今貴方が考えるべきは、体調を戻すことだけ。分かった？」

「……分かった」

「よろしい」



　医者のように頷いた朽葉に、もう寝なさいと頭を撫でられる。
　まるで子供のような扱いなのだが、実際彼女からしたら自分は子供のようなものなのだろう。
　さして歳が変わらないように見えるものの、朽葉は自分よりずっと年上であるらしかった。
　怖いので詳しい年齢は聞いていないが、逆らってはならないと肌で感じる。
　そういうときの勘は概ね正しいので、今回もカサネは大人しく目を閉じた。

　熱くて重い体から力を抜けば、すぐに感覚が朦朧としてくる。
　いつも落ちていく場所とは違う闇に引き摺られ、カサネの意識は眠りへと落ちていった。

　主が眠るのを傍で見守っていた朽葉から、溜息が零れる。
　盲しいたこの身では主の表情を伺うことは叶わなかったが、相当無理をしているだろう事は付き合いの短い彼女にも容易に察することが出来た。
　歳若い主が、それをけして口には出さないだろうことも。

　雨の中、何があったのかは分からない。
　だが、森に響き渡った彼の慟哭は朽葉にも聞こえていた。
　泥にまみれ、幽鬼のように生気をごっそり失って戻ってきた主に何があったのかを問う事は出来ず、同行していたシェイドのエンブリオは沈黙を貫いている。
　双頭の獣は痛ましいものを見ると同時に、隠しきれない歓喜を滲ませていて、彼が背負った業の深さが窺い知れた。

　けれど、朽葉はまだ部外者だ。
　双頭の獣の片割れとは浅からぬ縁を結んでいた身ではあるが、主の血筋に関することも、彼が背負った何かも、知る由はない。

　だが、朽葉もまたカサネと契約を結んだエンブリオである。
　動けない主を守ることに否やはなく、苦しんでいるなら助けになりたいとも思う。

　ふわり…
　ベッドの傍にある小さなサイドテーブルの上、たたんで置かれたカサネのマフラーからひらりと何かが舞い上がる。
　朽葉にはそれが何らかの術式である事しか分からないが、双頭の獣曰く蒼い炎の蝶らしい。
　主の知り合いが寄越したというそれは、標の灯火となるのだという。

　ならば、主は深い眠りに落ちてなお、何かを求めて悩んでいるのだろうか。
　うなされながら涙を流すのは……



「——…!!」



　ふ、と。
　自分の張った結界内に誰かが足を踏み入れた気配に目を開く。
　光を失った目は開いた所で何も見えはしないが、術式の感覚は目を開いている方が感じ取りやすい気がするのだ。

　侵入者……朽葉が張った目くらましの結界の中には、明確な意思を以ってしか入ることは叶わない。
　訪れた者はさて、敵か味方か…



「どうした？」



　立ち上がった朽葉に、ルベドが声をかけた。



「お客さんが来たみたい…ちょっと出てくるわ」

「共に行くか？」

「いいえ。貴方達はこの子を看てて」



　穏やかに笑みを浮かべ、朽葉は小屋を出る。
　未だ姿が見えぬ相手の気配に顔を向け、口を開いた。



「……何か御用かしら？」









▼：to be continued


　

（この青年からよもや“いい男”などという言葉を頂戴するとは思わなかった為、
ほんの一瞬だがきょとんとした表情が忍の顔に浮かぶ。
が、それもすぐに微かな——いつもより、幾らか読み取り易い笑みに変わり）

（どこか熟練の主婦の様なオーラを醸し出しながらそう言うと、
青年の背を軽く押して市の中へと促した）

（初めて訪れた青年へ、ざっと説明しながらのんびりと歩を進める。
急ぎ足ではろくに見れまいと、少し前を行く忍の歩調は大分ゆったりとしたものだった。

——と。
その時不意に、側を歩いていたカサネに向けて、店先から威勢の良い声が掛かる）

すっと上空にとび——

上空から降りて来る

「ここになにかがあるよ」と示すように
ウィスプは宙を舞っている