——自分は今夢を見ている、と、自覚する瞬間がある。
　夢の中で目が覚めるようなその感覚を、カサネは幼い頃から幾度か体験していた。
　多くの場合は置かれた環境にストレスを感じるなどして不安になった際、昏く深い場所で目を覚ます。
　そういった時は必ず体は動かせず、視線も固定されていて、カサネは決まってその場所にいる人物から一方的に話しかけられて目が覚める。

　だが稀に、そういった場所以外で目を覚ますことがあった。
　丁度、今のように。

　暗い闇の中にカサネは立っている。
　足下には無数の煌きがまるで星空のように瞬いていた。
　いつもは見上げている場所を見下ろしている、不思議な感覚。
　ここから一歩足を踏み出せば、恐らくいつもの…ここよりも深い場所に行くことができるのだろうという謎の確信。

　あの深い場所に今行けば、彼の人の顔を見ることが叶うだろうか。
　ふとそんなことを思いついて、眼下に広がる星空のような光景を見つめる。
　
　あの人物が、カサネの予想した通りの人だとしたら、聞きたいことはたくさんあった。
　彼が問いに答えてくれるかは分からないが、それでも現状を変える手立てにはなるかもしれない。
　内心で頷き、足を踏み出そうとした。

　そのとき——


「お止しなさい」


　凜とした女の声によって制止が掛かる。
　驚き振り返れば、砂色のローブを目深に被った人物がぼんやりと闇に浮かび上がるようにして立っていた。


「自ら踏み込めば、貴方は否応なく血族の業に巻き込まれることになる」


　自分の足下がふわふわと覚束ないのに対し、彼女の足取りは確固としたものだ。
　コツコツとヒールの音すらさせて、女はカサネの間合いから丁度一歩分外に出た位置まで来るとそこで足を止めた。


「それは、この先にいる者の本意ではないわ」


　近付けば、相手がかなり背が高いのだと分かる。
　ローブのフードを目深に被っているので目線は分からずとも、カサネよりは高い位置にあるのは確かだ。
　カサネとてけして背が低いわけではないが、ヒールの分を差し引いても恐らく彼女はカサネよりも背が高い。
　その理由を、彼女の背に見つけて息を呑む。
　遠目には分からなかったが、彼女の背には普通の人間にはない膨らみがあった。
　擦り切れたローブの裾から覗くのは、黒い翼——有翼人だ。


「……アンタは？」

「私は“番人”のようなものよ。貴方みたいな子が、不用意にあちらへ落ちないようにするための、ね…」　


　言って、女はカサネの足下へと視線を向ける。
　幾多の煌きはほんの僅かずつではあるが流れていて、行き先を辿れば天の川のような大きな流れが出来ていた。


「本来、翼を持たない貴方はここに落ちてくるべきではない」


　視線をカサネから外したままで、女は呟くように口火を切った。


「魂は流転し、時代は流れる。それは“理”であり、必然…貴方のように、血族が翼を持たなくなったのも同じこと」

「そうなるように、私たちは仕向けた。業を背負うは私たちの責務だけれど、未来を歩く子供達には不要なもの」

「貴方は、知らなくていい。知るべきではない……私たちは、それを望まない」


　それは拒絶の言葉だった。
　踏み込むなと、知る必要はないと線を引かれ、入ってくるなと女は言う。
　それだけで、優しく穏やかだったこの場所が酷く寒々しく感じるようになるのだから不思議だ。


「じゃあ…なんで…」


　口の中が酷く乾いて、声は引きつっていた。
　それでも問わずにはいられない。


「なんで俺は、闇を宿して生まれてきた…？」


　魔力などほとんどないファルベ諸島国において、カサネの宿した属性加護はそれだけで異質だった。
　異界へ飛ばされ、魔力を扱う技術を日々磨いている今なら分かる。
　高校時代のあの事件——枷を外し、引きずり出されたあの衝動は…魔力の暴走だ。


「踏み込むなと、関わるなというのなら、どうして俺は魔力を持っている?!」


　こんな風になりたかったわけじゃない。
　昔のように、多少口うるさい父親とたまに喧嘩はしても、友人と気安くふざけあい、笑っていた日々を続けていたかった。
　誰かを傷付けることなど、したくはなかった。
　他人を恐れて神経を磨り減らす日常など、求めていなかったのに。


「それを知る権利すら、俺にはないって言うのか?!」


　どうして、魔力など持って生まれたのか。
　そこに意味があるのか。
　ただ、怯えて生きる自分の道に理由がほしかったのだ。　　
　お前はこうなんだと、あの人物から聞ければそれでよかったのに…それすらも、拒まれるというのか。

　体の奥から吐き出すようなカサネの叫びが闇に響く。
　煌きは明滅を激しくし、怯えたように震えだす。
　首の後ろが熱を持ち、ジリジリと焦燥感が増していく。


　駄目だ、これ以上は—…


　感情に引きずられて、枷が緩む気配がする。
　身の内に宿した魔力が暴れだす。
　分かっているのに、止められない…止めたくない。


「貴方は…」


　女が驚いたように、何かを言おうとする気配がする。
　また拒絶の言葉か。
　もういい、聞きたくない…!!

　ギリッと奥歯を噛み締めたカサネが女を睨みつけるのと、視界が塞がれるのは同時だった。


「あー…煩ェな…騒ぐなこんなところで」


　溜息交じりの呆れたような低い男の声が背後から大雑把に投げられて、自分より大きく硬い掌が目元尾を覆い、ぐいと後ろに引かれてたたらを踏む。
　どん、と背中に当たる体躯は力強く、カサネがほとんどの体重を預けたのにびくともしない。


「ったく…ウチのチビ苛めてんじゃねェよ」

「あら、失礼ね。苛めてなんかいないわよ」

「お前の言葉はキツいんだよ。これだから元公務員は…死んでも頭固いとか、あー…ヤダヤダ」


　自分の前後で繰り広げられる気安い言葉の応酬に混乱する。
　一体何が起きているのかさっぱり分からない。
　ただ、会いたかったあの人物が来てくれて、助けてくれたのだというのは分かる。


「コイツは“俺”の管轄。“門番”のお前が余計な口出すな」

「……貴方、本当にそれでいいの？」

「俺の過保護は今に始まったことじゃねェだろ？娘達にも散々言われ慣れてら」


　はん、と何でもないことのように鼻で笑って、男の手がするりと離れていく。
　抑えられていたせいで滲んだ視界では、ローブの女が盛大に溜息を吐き出したところだった。
　離れた手はそのままカサネの頭に乗せられ、わっしゃわっしゃと遠慮なく髪がかき混ぜられる。


「う、わ…！ちょっと、何…?!」

「踏み込むも、背負うも、コイツの自由。コイツの道だ。邪魔すんな」


　男の言葉に心臓が跳ねる。
　親にすら、そんなことを言われたことはなかったのに。

　咄嗟に振り返ろうとするのを頭に置かれた手が阻止する。
　ギシっと骨が軋むほどに力を入れられて、思わず悲鳴が零れた。


「痛い痛い！いってェよ!!」

「んじゃ、こっち見んな。ただでさえわりと常軌を逸したルール違反してんだから、これ以上“理”乱すんじゃねェよ」

「……貴方こそ、死んでからも始末書ものの違反するの、直らないわね…」

「今に始まったことでもねェしな！」

「威張るんじゃないの」


　再び自分を挟んで気軽くやり取りされる言葉。
　何でこんなことになってるんだと意識が跳びかける。


「ん？あぁ…戻るのか。んじゃまぁ、ちょっと頭冷やして考えな。もっとも…」


　目ェ覚ました時には全部忘れちまってるだろうがな、と悪いタイプの笑みを含んだ男の言葉を最後に、カサネの意識は眠りの中へと引きずり込まれていった。






＊　＊　＊　＊　＊　＊　＊　＊　＊　＊　＊　＊　＊





「あ゛ー…」

「ちょっと！目覚めの第一声がそれってどうなの主殿?!」

「何だ？テンションだだ下がりだな…夢見でも悪かったのか？」

「……なんか、内容覚えてないけど、すっげェ疲れる夢見た気がする…」









　獣に背を預けた青年は、そう言って爽やかとは程遠い朝を迎えたのだった。