「これもまた流れの一つ……」




　呟きの後、派手な音と水飛沫と共に蒼い巨体が地に伏した。
　相手から敵意が完全に消えてようやく、カサネは詰めていた息を解放する。
　どっと汗が噴出し、肺が新鮮な空気を求めてぜいぜいと荒く呼吸を繰り返す。

　こと戦闘に関して、呼吸や瞬きは重要な役割を果たす。
　普段は無意識下で行われるそれらを支配下に置き、集中力を持続させるというのは生半可なことではない。
　実戦経験に乏しいカサネは現在、エンブリオ達の支援を受けてどうにかそれらを実戦レベルにまで引き上げている状態だ。
　その分、負担も大きい。
　一戦分の集中力を維持できるようになったのもつい最近である。

　ようやく呼吸の落ち着きを取り戻し、刀を鞘に収める。
　クレノが体重を感じさせない（実際ほとんど重さは感じないのだが）動きで肩まで駆け上ってきて、ニグレドはお疲れさんと笑う。
　挑むこと４回……
　ようやく勝つことの出来た相手を見やれば、蒼く透き通った鱗を持つ一角の大蛇は億劫そうに頭をもたげるところだった。

　不意に、彼らの穏やかとも言える眼差しは生まれ持った種族的なものなのかもしれないと思い至る。
　少なくとも見た目は（角があることを除けば）爬虫類であるため、表情が分かりにくいというのもあるのだろうが、戦闘中もどこか
達観したような眼をしているのだ。
　その眼が、カサネを見据える。
　戦闘の熱も、感情の波も垣間見えない凪のように穏やかなそれは、つい今しがたまで戦っていた相手に向けるには不相応な
気がした。
　同じことを感じたのか、肩の上でわずかに毛を逆立ててクレノが警戒する。その背を撫でて落ち着くように促して傍らを見れば、
ニグレドはどこか、面白がっている顔だ。




「これが貴方の望んだ結果ですか…？」




　それはカサネが彼らに負ける度、投げかけられていた言葉だ。
　その達観した眼差しと共に、高みから彼らはこの言葉を投げてきた。
　だから今までそれは、ここから先に進むには力の及ばない弱者に対する問いかけだと思っていた。
　お前はその程度なのか、ここでそうして膝を着くことが望みか、違うのならば力を見せろと…そんな風に言われたような気に
一方的になっていた。
　しかし、そうではなかった。
　彼らがいう『結果』とは、今ここでだけのことではないのではないか。
　この後も続いていく、この世界での己の在り方なのではないか——…

　これはカサネの様相にしか過ぎない。
　けれど、それがもし、彼らの意図するものと同じか、近いものなのだとしたら。




「……いいや」




　カサネは望んでこの世界に来たわけではない。
　この世界に呼ばれたのも、一揆に参加する羽目になったのも、不本意極まりない。
　だから否と声に出す。




「では、貴方は何を望むのですか？」




　重ねられる問い。
　見下ろしてくる眼差しは相変わらず何の感情も表さない。

　この世界で、自分は何を望むのか——
　そんなの決まってる。
　帰るのだ。
　あの平穏で退屈でちっとも優しくない、冷たく煩わしい世界へ。

　この世界は自由だ。
　誰もカサネのことを知りはしなかったし、その身に負う過去の咎や傷など誰も知りようがない。
　けれど違うのだ。
　この世界は、この空は、カサネの知っている青さではないから。

　帰るためには、この世界で生きていかなければならない。
　一揆に巻き込まれた今は生きるために戦わなければならない。
　であれば、求めるものなど決まっている。




「俺は…」




　顔を上げる。
　見下ろす眼差しと正面から対峙する。
　戦う時のように呼吸を意識した。瞬きを意識した。
　これは、もう一つの戦いだ。
　他でもない、ふわふわとおぼつかない自分自身との。




「俺は、力が欲しい」




　それはけして流されるままに暴れるだけのものではなくて。
　自ら望んで、這い蹲ってでも進んだ先にしかないもので。
　どれだけ怖くても、踏み出さない限りは進めやしないし、手に入りもしないのだ。
　だから——




「力を得るための手段が欲しい」




　利用できるものが目の前にあるのならば、手を伸ばす。
　流されるだけではなくて、自分の意思で掴み取るのだ。
　運命をあるがままに享受できるほど、カサネは達観できないのだから。




「そのために、アンタと契約したい」




　差し出す花弁は鮮烈な紅。
　一角の大蛇はじっとカサネを見据えると、やがてチロリと舌を閃かせてその手の中にあった花弁を奪い去る。




「貴方がそれを、望むのならば」




　舌先の花弁が火花のようにはじけて大蛇の中へと消えていく。
　ふるりと身を一つ震わせて、大蛇はゆっくりとその角をカサネの伸ばしたままだった掌へと押し付ける。




「私は貴方に従いましょう……我が君」




　それはさながら主に跪く騎士の如く。
　パロロコンは恭しく頭を垂れた。








＊　＊　＊　＊　＊　＊








「——なんて時期が、私にもありました」


「待って待って新入りサン。それわりと最近ていうか今日の話だよネ？何でそんな現実逃避してんの？」




　月を見上げて切なくも哀愁漂う情緒たっぷりに思わせぶりな台詞を吐いた新入りエンブリオに、ニグレドは苦笑しながら相手を
してやる。
　理由は明白だった。

　カサネとパロロコンの契約が成立した後、彼らは互いの傷の手当を簡単に済ませて出発した。
　一歩でも先に進みたいというカサネの要望であると共に、彼がエンブリオ達ほど夜目が利かないため、完全に日が落ちる前に
野営地を探し出す必要があったからだ。
　水場近くに詳しいパロロコンの助言もあり、無事に今夜の寝床を決めた一行が食事を済ませ、今後の方針やらを軽く話し合った
後…所謂団欒の時間にそれは起こった。




「ああ、そうだ。なあ、鱗見せてもらっていいか？」




　カサネから発せられた、何となく思いついたから聞いてみたといわんばかりの脈絡のない一言。
　そこでパロロコンが困惑したり、拒否していたら彼はあっさりと引き下がっただろう。
　そしていつものようにニグレドを枕に、クレノを湯たんぽ代わりにして、今頃は既に就寝していたに違いない。
　けれど、パロロコンは寛大だった。
　他種族が己が持ち得ぬものに興味を示し、見たり触ったりすることに嫌悪を持たなかったことも災いした。
　カサネは自分の世界から持ってきた数少ない荷物から手帳サイズのスケッチブックを取り出し、熱心に鱗の詳細などを描き
始めたのだ。

　最初は乱雑な線ばかりだったのに、30分もすれば写し取ったかのような姿で描いて見せた。
　馴れている——そう思わせるに十分な手の動きであり、集中力だった。
　聞けば、この世界に来てからは機会がなかったが、元々は彫金を生業にすべく勉強していた過程でこうして興味を引かれた
ものを描くようになったのだという。

　笑ってそう言った彼らの主は、今は無言で一心不乱にペンを走らせている。
　すっかり夜も更け、深夜となったにもかかわらず、だ。
　生返事らしなくなったので、最早何を言っても聞こえていないのだろう。
　とんでもない集中力である。




「この集中力を戦いに活かすことができれば、もっと楽だろうにねェ」

「私、まだ『名』も頂いていないのですが…」

「あー……うん、ドンマイ★」


　

　パロロコンにも自身を示す名——『真名』はあるらしいのだが、どうにもニンゲンには発音が難しいのだという。
　ゆえに契約を交わし、主となったカサネには名を賜りたいと申し出るはずだったのだが……すっかりタイミングを逸してしまった
というわけだ。
　ニグレドも魔獣であるから、『名』の重要性は理解している。
　だがしかし、現状ではとてもではないがカサネの手を止められる気がしない。
　『名』が重要であるだけに、適当に付けられるのもそれはそれで困るので、待つしかないだろう。
　しょぼくれる後輩エンブリオを励まして、獣達の夜は更けていった——








　結局そのままカサネは根付を一つ完成させるまで止まらず
　パロロコンが名前を与えられたのは出会いから２日後のことであった…

（カサネの思いもよらぬ勢い、筋肉への熱いパッションにしばし圧倒される忍者。
そんなエキサイティン！な主にフォローを入れてきた黒狼に何か妙なシンパシーを抱きつつ、
いや良い、気にするなと言い置いて）

（修行時代のアレやコレを思い出したのか、微妙に苦い顔になる忍者）

（失礼する、と断ってから、軽くカサネの腕や肩辺りに触れる）

（それが、この青年にとって真に良い事なのかどうかの判断は、忍にはつきかねたが。
少なくとも、ここ——メルンテーゼで危険を遠ざけ生き延びる為には必要かもしれぬ、と。
“先日起きた事”をちらと振り返りながら、そう思った）

＊

（そのしみじみとした物言いからおかん察した。
“——甘味どころか多分この子普通のごはんもちゃんと食べてない！——”
と、おかんセンサー反応した。
きっとおかずとかも色々持ってくるよ間違いないよ仕方ないね！）

＊

（ならば、と気さくに話すニグレドの前に膝を着き、目線をあわせ）

（それは“同輩”への挨拶として。
いきなり手の平で触れるのは礼を欠くかと思い、手の甲でさらりとその毛並に触れる）

＊

（何かつい謝ってしまう忍者！
何年経っても！何年経っても！未だにフォローしだすと泥☆沼！）