ふと、足下がおぼつかない感覚に陥る時がある。
　それは時に人ごみの中であり、時に一人課題に向かう最中であり、時に意識のない、夢の中であった。
　夢の記憶など覚えていないことの方が多いし、夢の中でならそんなことがあってもおかしくはないようにも思えるが、
不思議とその感覚に陥った時の夢をカサネは忘れたことがない。
　目眩のように視界が歪み、踏みしめた足下が不意になくなる——落ちるにも似た、あの感覚。
　その夢は、カサネを深い深いところへと連れて行く前触れなのだ。

　そこはいつも昏い場所である。
　しかし、心地のよい場所でもある。
　夢の中であるにもかかわらず、転寝のような緩やかな安らぎを感じる場所なのだ。

　この夢を見るのは、決まって自分の心が不安定になっている時だということをカサネは既に認識していた。
　この場所の居心地が良いから、無意識下で逃げ場所にしてしまっているのだろう。
　とはいえ、ここしばらくは見ていなかった。
　異世界転移に馴れない戦闘とサバイバル生活、トドメに防衛本能の暴走——自分で思っている以上に、神経が磨り減って
いたのかもしれない。
　水面を漂うような心地よさを感じながら、ぼんやりとそんなことを考えていた。




『……何だお前、また来たのか』




　不意に笑みを含む声が届く。
　呆れたような口調で、けれどその声は酷く優しく、懐かしいような不思議な響きを持つ。
　多分男の声だと思うのだが、カサネは声の主の姿を見たことがない。
　すぐ側にまで気配が来るのは分かるのだが、カサネはぼんやりと上を見上げることしか出来ないのだ。
　その視界に、声の主は入ってこない。




『まったく、仕方のない奴だ』




　恐らくは手を伸ばせばすぐ届くほどの距離に、他人が座り込む気配がする。
　首を少し傾ければ、あるいは視線を動かせばその姿を見ることができるのかもしれない。
　けれど、この場所でカサネが見ることが許されているのは、星空のような無数の煌きが散りばめられた空間だけだ。
　　



『ここに幾度も落ちてくるほどお前の闇は深いのにな……翼がないのを惜しむべきか、それとも安堵すべきか』




　翼は血族の証。
　有翼の子供が生まれなくなって久しい玄守家の出身であるカサネには、それがどういうことなのかは分からない。
　ただ、かつて翼を持って生まれた子供は、全て本家の名の下に引き取られていったらしい。

　もしかしたら……翼があれば、枷を不用意に外すような真似をしなくて済んだのだろうか。
　ニグレドが言っていた。カサネのあの衝動は、先祖譲りの強い魔力が引き起こした暴走の初期段階であると。
　ならば御することが出来たなら、狂気へ駆り立てるようなあの衝動に抗うことが出来るのだろうか。
　——誰かを傷つけることもなくなるのだろうか。

　考えても詮無い事だとは思う。
　今更傷つけたという過去は変わらないのだし、どれだけ望んだところでカサネに翼はないのだから。




『おい、それ以上沈んだら流石に引っ張り上げられねェから止めておけ』




　ついっと伸ばした後ろ髪を横から引かれ、思考が中断する。
　声の主が接触してくるのも、随分と久しぶりだった。
　子供の頃はそれこそ頭を撫でられたりもしたものだが、ここ数年はほとんど触れられた覚えはない。

　その手が、頬に触れる。
　筋張った硬い手だ。
　幼い頃は父親のような大きな手だと思う程度だったが、今なら分かる。
　この手は、戦うことを知っている手だ。




『あまりここに馴染み過ぎるな。お前の身には、ちと重い……クレノを上手く使ってやれ』




　唐突に声の主から自身のエンブリオの名が出たことに、内心目を剥いた。
　何故、その名を知っているのか。問いかけたい気持ちはあるのに、体は動かないままだ。
　カサネの動揺を他所に、手は頬を滑り、やがて視界を覆い隠した。




『お前が自身の魔力をモノにすれば、その分だけクレノも本来の姿を取り戻す……しっかりやんな、坊主』




　その言葉を最後に、体がぐっと持ち上げられる。
　浮上する——目が、覚める。




「待ってくれ!!」




　手を伸ばし叫んで、愕然とした。
　カサネを包むあの優しい場所はどこにもなく、目の前には朝靄の立ち込めた森と川のせせらぎが響くばかり。
　完全に、目が覚めてしまったようだ。



「んー…？どしたの主殿？」




　くああ…と欠伸をしながらニグレドが暢気に問いかけてきたが、カサネは伸ばした手を下ろし、何でもないと答えるしかなかった。