身体のずっと奥の方で燃えていた炎が段々弱まっていくような、
そんな感覚はなんとなくあった。
それが一体何なのかは、明確には分かっていなかったのだけど。


「さようなら。
あなたの事が、大好きでした」

何処か遠くで、震えそうな声が聞こえた気がした。



*
気が付けば色んな景色が轟々と流れて行く中に立っていた。
赤い目。銀の狐。花。たくさんのご馳走。小さな宿。子供たち。銀の狼。遺跡のある小さな島。
滝のそばにいるような、ドウドウと渦巻く音がする。よくよく耳を澄ませれば、その音は聞き取れない程の重なる声の集まりみたいだった。
誰かがわたしに手を伸ばす。でも届く前に景色が流れてしまう。濁流に飲まれるような、そんな息苦しさで飛び起きた。
全身に汗をかいていたのか、服も布団もびしょ濡れだ。着替えなきゃ、そう思ったのに身体がフラついてそのまま布団に倒れこむ。何でだろう。頭が凄くボンヤリする。

懐かしい夢を見ていた気がするのに、さっきまで見ていた内容はもう思い出せなかった。あれは何処で、誰だったんだろう。頭の中に淀む靄を払おうとするのに、息苦しさが阻む。久しぶりの感覚だった。記憶が戻る時に見る風景の波。だけど何故そんな感覚を見たのだろう。誰かがわたしに記憶を戻した？
ズキズキと痛む頭を抑えて、息を吐く。今までのものとは比べられないくらいに大きな波だった。自分の呼吸音が耳につく。息がしにくい。

「いま、何時なんだろ…」

カサつく喉から出た声はいつもよりずっと低くて随分と聞きなれない声だ。変なの。違う人みたいだ、なんて思いながらユクリを呼ぶ。なのに、返ってきたのは沈黙だけで屋敷には誰も居ないのか生活音すら聞こえない。部屋の窓から入ってくる明かりから見れば、もう昼を過ぎている頃な筈なのに。いつもであれば、パァンって襖が空いて怒鳴られる筈なのに。遠くで竹の葉が揺れる音が風に乗って届く。静かなのだ。とても。

『さっさと起きんかこの寝坊助』
耳が聞こえない音を拾おうとする。あぁそうだ居ないんだ。何処にも。どうして夢じゃないのだろう。悪かったな、悪い冗談だなんて言って帰って来てはくれないのかな。
じんわりと目に水が張って景色が歪む。拳で拭って、息苦しさから大きくため息を吐いた。

「やっと起きたのね」

どこからか、声が聞こえた気がして飛び起きた。はっと後ろの窓を振り返る。はっきりとした人の気配。でも、そこには花が一輪窓辺にそっと影を落としているだけだった。
何？誰か居るのだろうか？

「もう起きないつもりかと思っちゃった」

今度は、反対側から。
また慌てて振り向けば今度は揺れる影が見えた。なのに、まわりを見回したところで部屋にはやっぱり自分1人しかいない。首をかしげると、今度は上から声が降ってくる。

「あなた一週間も熱出して寝てたんだから」
「一週間…？」
「そのまま眠りこける気なんじゃないかってヒヤヒヤしたわ」

クスクスと柔らかな笑い声が反響する。返事がある時点で、声がするというのは気のせいではないみたいだ。でも部屋中にこだまする声は、今はもう何処から聞こえているのか特定もできなくなっていた。不思議な声だな。そう思う。何処かで聞いた気がするのに。誰の声なのだったっけ。

「あなたの声、知ってるのに。どうして思い出せないのだろう」
必死で記憶を手繰っていると、やだなぁって少女が笑う。

「覚えてないのかぁ…わたしはあなたに恩があったんだけどなぁ」
「恩？」
「そうだよ！抱えきれないくらいに。だから消えちゃう前に、最後に道標をあげに来たの」

静かだった部屋にまた、景色と音の波が押し寄せる。部屋の景色が瞬く間に一変した。

最後に？消える？
どういうこと？って聞いた声は、ドウドウと唸る声達にかき消されてしまう。その音の隙間を縫うように、少女の声が響く。

「さぁ。おはようの準備をして。もうそろそろ歩かなきゃね」
「...なんの事？」
「知ってるよ。置いていく方だって寂しいけど、より寂しいのは置いて行かれる方なんだってこと。でもねぇ」

何時までも、そうやってグズグズしているわけにはいかないでしょう。
もう歩いて行かなくちゃ。
部屋がどんどん音に満ちて、声が聞きとれなくなっていく。

波に溺れる、そう思った時に誰かがわたしの腕を引っ張り上げた。赤い髪が揺れる。「一瞬だけ、靄を晴らしてあげる」
その手が流れ行く景色を指した。

「覚えててね。あの人がずっと、誰よりもあなたの近くであなたの事を待ってるから」

目で追えたのはほんの一瞬。
ちゃんと見る事は出来なかったけれど、どうしてだか懐かしさに胸が締め付けられた。
見えた？と隣で少女が笑う。

「待ってる人がいる。だからもう、止まっちゃダメだよ」
その時初めて少女の顔が見えた。
真っ赤な髪。真っ白な肌。思い出す。あの時ノヴァが持っていた写真の中の女の子。わたしの夢に出てきた女の子だった。名前も知ってる。
何度も何度もジジ達から聞いたその名前。

最後に、と耳元で少女が話す言葉を聞き漏らさないように必死で音を拾う。
「約束。必ず伝えてね」
真っ赤な髪がふわりと揺れた。
わたしの腕を掴んでいた手がパッと離される。途端、わたしの身体は簡単に波にさらわれた。

あぁ、そうか。何処かで聞いた声だと思ったのに初めて聞いたと思った理由。笑っていたからなんだ。初めて見た夢の中で、ベルカを助けてとずっとずっと泣いてた女の子。あぁ、良かった。もう泣いてなんかいないんだ。音の渦のせいで、もう声は聞こえなかったけれど。少女の口がさよならと動いた事がはっきりと見えた。胸の奥で燃えていた炎が燃え尽きるように小さくなっていく。わたしの記憶の波に飲まれて消えていく。

「伝える！伝えるから！ぜったいに！イシス！」

わたしの声は届いたのだろうか。
手が離れる前に、あなたの中で過ごした時間はとても楽しかったとイシスは笑った。それがとてつもなく嬉しくて堪らなかった。
息苦しさが少しずつ引いて、水面から顔を出すような感覚が身体を覆う。はっと目を開けると、いつもの部屋の天井が見えた。ゆっくり起き上がって耳を済ませると、音の渦は消えていて、また笹が風に揺れる音だけが響く。夢だったのだったのかな。だとしたら、どこからどこまで？そう思ってもイシスの言葉だけがはっきりと耳に残っていた。

思わず部屋を飛び出す。探索が終わったのか、玄関で何人かの話し声が聞こえた。勢いよく扉を引いて、姿を確かめる。わっ！と目を見開いたユクリに向かって、ノヴァは！？と叫んだ。横から闇が川の方に居ると竹林の向こうを指差す。
お礼もそぞろに、川の方へと駆けた。上手く履く事が出来なくてもどかしさから裸足のまま走り出した足の裏に、チクチクと石が刺さる。
寒さから感覚も消えかけていたのに、心は少しも痛くなかった。
不思議とボロボロと溢れる涙を手で拭って、邪魔な岩を飛び越えた。
忙しいなと思う。人は悲しくなくても涙が出るのだな。
イシスが預けた言葉がわたしの身体を軽くする。

すき。あなたがすき。だいすき。

坂を駆け降りる。
この坂を下れば、もう川だ。