「……アリス、だいじょうぶ、なの？」
　表情を曇らせ、か細い声で問いかけてくる幼子——ファイに対し、僕は絵本を読み聞かせていた。
「大丈夫、っていうのは？」
「こんな、おおきい、あなに、おちたら、しんじゃう、と思う……」
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　 ア　リ　ス
　真っ逆さまに急転直下していく、絵本の登場人物。このまま地獄まで到達してしまうのではないか、と言わんばかりの勢いに、思わず恐怖を覚えたようだ。
「大丈夫だよ。アリスが今いる世界は——」

　——そう言いかけて、口を噤む。
　果たして、読み終わる前から物語の根幹。夢故の無価値性を殊更に強調してしまって、いいものだろうか？
　　　　　　　フーダニット
　ミステリの犯人当てを明かしてしまうような行動が、許されるのだろうか？
　そう考えた僕はゆっくりと、あやすような口調でこう言った。

「……、そうだね。こんな所から落ちたら、危ないかもしれない。
だからね——信じてあげて？　アリスはここから落ちても平気だ、って。信じれば案外、夢は叶うものだからね」

　そんなことを言いながらも。僕は眼前の、純粋な子供に対し——恐怖を覚えていた。



　 　　　　　　　　　　　　　　　サタン
　それは、16日目の夜——悪魔狩りを終えた後のこと。
「ん？　あの人影ってもしかして——」
　銀のショートヘアに、宝石のように紅い色をした瞳。
　一見すると女性と見紛ってしまいそうな美しい容姿に、吹けば飛んでしまいそうな程に幼いその体躯。それらの特徴は、見る者の庇護欲を掻き立てることだろう。

「ファイ君……だよね？」
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　 デジャヴ
　そう呟いたはいいものの、どこか奇妙な違和感——そして既視感を感じる。

「ユニコーンは……いませんね」

　ファイと思わしき影はそう呟くと——声をかける間もなく、ふわりと闇の中に姿を消した。
「……？　うん、確かに……」


　そう。確かに、姿を消したのだ。
　　　　、 、、
　——ふわりと、宙に浮きながら。


　　　　†

　翌日になって、ファイがその時の攻城における同行者であることが解った。
　あんな子供に苛烈な戦闘が出来るのかと不安にもなったが、同時に何故か「大丈夫だろう」と思う自分もいた。

「ファイ君の様子がどうにも妙だけれど——今は、目の前の悪魔に集中かな」
「……すごい、かおの、いっぱい、いる。あと、あの、ちっちゃいのは、ちょっと、さわって、みたい」
　興味深げにそう言う様子は僕が知っている通りのファイという人物であり、やはり先日の違和感は何かの勘違いだったのだろうと思わせるのに十分だった。
　無論空中浮遊などもしておらず、しっかりと地に足を付けて歩いているようだ。

「危ないから下がってて——ねっ！」

　そう言い終わると同時に地面を蹴り、弾丸のように敵の渦中へと斬り込む。
　僕を取り囲む亡者の群れは、すぐにこちらへ攻撃を仕掛けようと襲い掛かってくる——刹那。


▼「犯人」ミラルカの行動！

　　　　　　　オ　ド
　手の中の魔力を増幅させ——周囲一帯にぶち撒ける。光の魔力は亡者の軍隊を一閃し、悶え苦しませていく。
　パロロコンの記憶を見て以来得たこの光の力は、僕の中でしっかりと根付いていたのだ。

「ぐ、ガアァあアッぁアァァ……ッ！！」
　焼け焦げるような音と共に、呻き声を掻き鳴らす亡者。その醜悪な様子に、思わず頬を緩める。
　この様子では、もう長くは保たないだろう。
「亡者は亡者らしく、光に焼かれるがいいさ」
　手甲を仕舞いこんで、安堵の息を漏らした——その時。


「ガ、ぐッ、グアぁァッッッ、ガぁぁあァぁッ！！」

　絶叫する亡者。既にその足は崩れ落ち、腕は拉げている。
　しかし何かの命令に従うかのように、崩れ落ちながらも尚こちらへ襲い掛かってくる！

「しまっ——！？」

　メキメキと膝の軋む音を鳴らしながら、戦車のように突っ込んで来る亡者。
　すっかり警戒を解いてしまっていた僕は、これを躱すどころか防ぐこともままならない。

　亡者が折れた腕を、無理矢理にこちらへ伸ばしてくる。肘からは肉を裂いた骨が突き出ており、傷口からは緑色の血が噴き出している。
　亡者——と言うよりは最早、“肉塊”と呼んだ方が適切とさえ思えるが——の腕が。頬に触れる。
　僕は動けない。体を逸らそうと試みるが、間に合わない。
　このままでは、死ぬ。
　殺される。
　殺されてしまう。

　——瞬間。

　緊迫した空気には似つかわしくない、間の抜けた声。
　——と、同時に、轟音。

「！？」

　地面が大きく揺れ動く。
　魔力によって干渉された大地は震動を余儀なくされ、間近まで迫っていた亡者を派手に転ばせた。
　転んだ亡者はまるでトランポリンの上にでもいるかのように、何度も体ごと跳ねては叩き付けられた。

　すぐ傍にいる僕の付近は何かに守られているようで、一切揺れることがない。
　僕はただ、軽快に飛び跳ねながら破損していく亡者を、眺めていた。



　　　　†

「エヴォル、報告があります」
《何だいラウラ。改まって》
　　　　　　　　　、 、　、　、 、
「この一揆は、出来過ぎている」
《知っているよ。そのくらいは。ボクが一番よーく解ってる》
「いいえ、解っていない」

　ラウラは信じられないといった表情で、歓談しているミラルカとファイの様子を、影から見つからぬよう眺めている。
《ふうん？　聞かせてよ。その“出来過ぎ”とやらをさ》
　通信を続けながら、緩やかに距離を取るラウラ。
　魔力の発露を最小限に抑え込み気配も殺しているが、その顔色は青ざめていた。
「ミラルカ・ハウダニットが——とてつもなく膨大な、魔力の塊と会話をしています」
《魔力の……塊だって……！？　まさか——》
　エヴォルもどうやらその意味を理解したらしく、声に余裕がなくなる。
「えぇ。ファイと名乗っている少年は——ミラルカ・ハウダニットと同じ、人工物です」



　　　　　　　　　　　　　　　　「レーネフィア・ディ・ステラ」

　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　「ミラルカ・ハウダニット」

　　　　　　　　　「サタン」　　　　　　　　　　　　　　　　「リッチ」　　　　　　　　　　　　　　　　　「ファイ」

　　　　　　　　　　　　「ヒュドラ」

　　　　　　　　　　　　　　　「ガーゴイル」　　　　　　　　　　　　　　　　　　「ガーディアン」




《無茶苦茶だ》
「ええ、無茶苦茶です。この一揆には——造られた生き物が、多過ぎる」
《ボクらの実験に、このメルンテーゼが選ばれたことは偶然ではない、と？》
「必然とは言えないでしょう。ですが何らかの意図により、被造物が“集まりやすい”環境を作っている可能性は有る」
《……。どうやらその可能性についても、心当たりがあるようだね？》
「未だ、確信は有りません。ただ、いくら異世界からの移動が盛んな状況とはいえ、この状況は明らかに異常だ。
　例えば“被造物の実験を行いやすい土壌を、意図して作った”という可能性は有ります」
《…………》
「………………」

　沈黙。先に口を開いたのは、エヴォルの方だった。

《ラウラ。ベルクレア騎士団に接触出来るかい？》
「私の任務は、ミラルカ・ハウダニットの観察なのですが」
《急を要する。もしかすると、ボクらの計画が漏えいしたこともまた——魔王、パラダイスの仕業かもしれない》

　ラウラは一つ溜息を下ろすと、「分かりましたよ」と答えた。

満足気に、そう呟く。いたずらが成功した子供のような表情で。
それが加減を知らぬ子供らしい危うさを、ミラルカに見せているなど
本人としては考えてもないことだろう。

気取ったウインクに、今度こそ邪気の気配はない。
あるいはその様子を見て、悍ましき何かを放っているのかそうでないのか——
それを判別する術の片鱗を掴むことは出来るかもしれない。

僅かに声の調子が落ちる。その様子は先ほどまでの冒涜的な様子と似ている様で異なり、
彼女を象徴する霧のように不確かなものでもあった。