【-遠い花火-メルンテーゼ・夜、海辺から少し離れた宿にて】
※前回の戦闘、ブランチマン戦後のお話でござるよ。



それは新品——ではないが、まだお払い箱になる歳月は経ってないものの様に見えた。

何でも、溜まった宿代を払い切れぬ客が残していったものらしい。
置いてかれてもねえ、うちじゃ扱える人間もいないし、
かと言って売るのもなんだかねえ、…と、何だかんだ人のよさそうな宿の主が、眉を下げて笑う。

皮の張られた胴、長い首に三本の弦の——楽器。
この手の楽器は、年月が経ち過ぎると劣化して良い音が出なくなる。
が、しばらく弾かれなかった割には皮も傷んでいない様子だった。
弦だけが、三本ことごとく切れていた。

直して良いかと聞けば、好きにして良いと返ってきたので、
珍しく空いた時間の手慰みにと預からせてもらった。


＊


自分達以外に滞在する何組かの客の部屋や、宿主の部屋からはなるべく離れた一室。
ここならよかろう——と、縁側の柱に背を預け、座した膝に楽器の首を乗せ作業をする。
弦を糸巻きに巻きつけながら、指で均等に伸ばしてゆく。
最後に三の糸を張り替えている途中で、慣れた気配を感じた。
程なく、おずおずと障子の向こうから、手持ち灯篭を持った龍貴が顔を出す。

「あの…巳南さん、こんな所で何を…　…わ、三味線？ですか？」

「うむ、宿のものだが弦が切れていたのでな。主人から預かり、張り直している」

調節しがてら撥を当てると、弦が震え独特な音が鳴る。
音の調子から、まだ馴染んでないかと再び指先で糸を伸ばしつつ。

「巳南さん、三味線弾けるんですか…！？」

「ほんの、手遊び程度でござるが」

自分（忍者）と楽器、という取り合わせが意外だったのか。
横に座り、へええ、すごいですね、と関心しきりに手元を見ていた龍貴だったが、
やがて「あ」と、何かを思いついた様に声を上げる。

「あ、じゃあ…唄、とかも。何か、唄えるんですか？…」

「唄、か…」

長唄、小唄、民謡…どの様なものを頭に描いたのだろうか。
いずれにせよ、祖父の影響で連想したのだろうなという事は、想像に難くはなかったが。

その時。
どん、どん…と響く音に二人、顔を上げた。
そういえば、今夜は浜で花火を上げるらしいですよ、と宿の主人が言っていたか。

「花火の唄、とか…」

そういうの、あるんでしょうか…と尋ねてくる顔を、ちらりと眺めながら。
ふむ、と手を止めて、記憶を手繰る。

（花火の唄か…そういえば、——）

記憶の片隅に、いつか聴いた艶のある音色と声がふと蘇る。


…空を焦がさぬ谷間の花火　ぬしの前だけ焦げ開く——


「……すまぬ、唄の方はあまり覚えておらぬゆえ」

「あっ、いえ！こちらこそ…無理言って、すみません」

頭に浮かんだ唄をすばやく封印し、龍貴には何食わぬ顔でそう答えた。

自分が唄や三味線に触れた場所は、主に廓界隈である。
必然、覚えたのは男女の間の戯言や色恋を唄ったものが多い。
純粋な興味で尋ねてきた龍貴には申し訳ないが、聴かせて意味を問われても困るし、
分かられても…それはそれで、困る。色々と。

どん、とまたひとつ、空に火の花の咲く音がした。
ここからは音しか聞こえないが、その数から見てなかなか盛況な様だ。

「…見に行かなくて、良かったのでござるか」

「……はい……　そんな気分には、なれなくて…」

沈んだ声。
先程まで空を見上げていた顔は俯き、
今は月明かりと灯篭がぼんやり照らす地面へ向けられている。
先日の庭園での探索で見事に負けたのが、未だ大きく堪えているらしい。

無理も無かろうな、とは思う。

恐らく今まで、普通に喧嘩——誰かと殴りあったりした事も無かったであろう。
それでも何度かの戦闘を経て、少しずつ自分がどれだけやれるのかを確かめていた矢先——
ささやかでも積み重ねていた自信は、己の体ごと吹き飛ばされた。
老練な古兵の、荒々しく強い意志と力、言葉によって。

「——つわもの、でござったな」

「……は、い」

誰を、何を指すかは、言葉にせずとも通じた。

日の落ちる前には、カツヱからも歯に衣着せぬ言葉を貰っていたのは知っている。
だが部屋には立ち入らぬまま背中越しに聞こえたその言葉は、厳しいが——
正しいものだとも、思った。
むしろ、あの様な言葉をカツヱが自らかけた事に、少々驚いた。

…この手が、例えばたおやかな母のものだったならば。
こんな時、そっと傷を癒し包んでやる事も出来たであろう。
だが、ここに彼の母たる手を持つ人間は居ない。

「…屈するでござるか」

「えっ？」

俯いていた顔が上がり、こちらを見る。

「お前には無理だ、お前はクズだ、と他人に言われ——。
その言葉にそのまま屈するのでござるか、と」

「——…っ」

小さく息を呑む音が聞こえた。

「…たつき」

静かな声だけが、花火の音も途切れ、弦を鳴らす手も止まった夜のしじまに響く。

「自分が何を成すか。自分が何であるのか。決めるのは、他人ではない。
——全て、自分にござる。

“無理だ”と。“クズだ”と決めるのもまた、他人の言葉に屈した自分が決める事」

「……でも！私はあの時、本当に…何も出来なくて、っ…」

「不甲斐無きは、拙者も同じでござろう。準備も調べも及ばず、二人を危険に晒した」

「そ、それはちが…違います！だってあの時だけじゃなく…いつも、
私はいつも、巳南さんや大楠様の足をただ、引っ張って——」

それは、旅立ってからずっと感じていた事なのだろうと知れた。
感情の高ぶりと共に溢れ出した透明な雫が、ぽろぽろと頬を伝う。

「たつきが戦闘に慣れぬのは、拙者もカツヱ殿も最初から承知している。
それでも共に往く事を決めたのは、各々自分にござる」

「——」

「それに、拙者もたつきが居て助かった場面は幾度と無くあった。
慰めの為の詭弁を使う気は毛頭ござらぬ上で、言っている」

音もなくひとつ息をつき、再び派手な音を響かせ始めた夜空を見上げる。

「…見えぬ花火とて。そこまで歩んで行けば——
“歩むと決めた”ならば、その目に映す事が叶う時も来よう」

「…私が、“そこまで行けない”、“見えないもの”と、決めつけなければ…？」

じっと何かを思う、線の細い横顔を見遣りながら無言で頷く。

——柔らかな母の手は、到底持ち得ぬが。
共に往く者が自分の足で立つ為、そしてその背を押す為ならば。
武骨な己の手で良いのなら、黙って差し出す位の事は出来よう。

「——いつか揃って、今度は音だけではなく…実際に見に行ければ良いでござるな」

「……はい。そうですね…皆で」

「…カツヱ殿はまた、“面倒だ”などと言い出しそうではござるが。
そうなった場合は、拙者がおぶってゆこう」

半ば本気で、真顔で告げれば、
その光景を想像したのか濡れた眦のまま、龍貴が密やかに笑う。


＊


——それから暫しの間、縁側にて。
花火の上がる音を縫い、忍が時折流す三味の音を二人で聴いていた。


今は。——今は、まだ。
でも、いつか。


今、目に映るものが夜空を彩る大輪の花でなく、
この灯篭の点す小さな灯りのみだとしても。

俯いたまま、意気阻喪。必要以上に思い詰めている。

殿や嬢は「〜さん」のようなものだと思っているようだ

そう言い、耳をぴこぴこと動かした

（礼を述べる忍に、ふるりと首を振り）

（必要以上に踏み込まれなかったことで、無意識に少し、肩の力が抜けた）

（目元が緩む。どうやら、笑ったようだ）

(猫がまた、ひそひそと何かを耳打ちする)

せんさまー　みなみー　みてみてー　かめらあっぷですのー　ぶいっ！
めいんひろいん　いただき　ですの　　茶々！　おんすてーじ！