頬から赤くなった目許へと触れれば、そこは予想通りの熱を指先に伝えてきた。

崩れた壁を、全て洗い流すかのような決壊。
止まる術を忘れてしまったかと思う程の涙は、けれど徐々に収まってゆき——
汲んでおいた水を沸かし、白湯を渡す頃合には、どうにか落ち着いた体を見せていた。
ばつの悪さや照れ臭さを誤魔化す、どこか子供のような顔に思わず顔が緩む。
…同時に、自分がしてきた無体をまざまざ思い知るようで、密かに胸が痛んだ。

あまり見るな、と突っ張らせた腕を取り、逆にしっかりと抱き寄せる。
嫌かと尋ねれば遠慮がちに、しかし否定の言葉が返されたのをいい事に、そのまま懐奥へと抱き込んだ。
そうして互いの体温と鼓動を間近に感じながら、ぽつりぽつりと…
お互い、これまで出来なかった様々な話をする。

“伏火”——先ずは、この世界で初めて口にする自分の本当の名を告げた。
そして自分の世界の事、そこでの自分の事を。


精霊と大地と人とが、正しき“律”によって保たれる世界。
北方の地に棲まい黒の森を治める旧き精霊、炎纏いし黒犬をその血に宿す“境界守”、バスカヴィルの一族。
調和と律を保つ、彼らの務め。
そしてそのバスカヴィルを主家に持ち、千を越える歳月を共に歩んできた犬守忍。
犬守直系の血を引き、頭領——“首（おびと）”と呼ばれ、率いていた自分。
幼い頃から妹のように寄り添い過ごしたバスカヴィルの末子、亡き主。
その遺児——血の繋がらぬ自分の息子、ヨエル。


それら、過去と今の自分を形作っているもの全て。
口にすれば、共に生きるのならば背負わせずには済まない全てを今、腕の中の唯一人に伝える。


「…主を亡くすと、」


暫しの間の後、再びぽつりと忍の口が開いた。


「犬守の忍…こと直属の“主持ち”は、その結び付きの強さ故、胸に大きく深い穴が開く。
自分の魂すら抜け落ちてしまう様な、何者も埋める事が出来ない穴が」

「…そしてそのまま立ち直れず、癒えぬ傷を抱え忍を辞めてゆく者は多い。
…俺が“あの時”そうならなかったのは、ひとえにあの子——ヨエルが居たお陰だろう」


いつも通りの、淡々と抑えた声の裏側。密やかに滲む感情は、抱く腕、触れ合う胸を通して伝わるだろうか。
目を閉じ、黒髪に唇を寄せて、故に——と忍は言葉を続けた。


「……故に、俺は忍としてしか生きられない。
そして、何があろうと元の場所…あの子の傍へ、戻らなければならない。
何もかも捨てさせる覚悟をさせておきながら、自分は何一つ捨てられぬ身だ。——だが、もう許せとは言わない」


頤を掬い上げるとじっと紫眼を見つめ、相手がそうしてくれた様に今度は、忍の覚悟を言葉にして告げる。


「…捨てて、越えて尚。この先を、共に生きて欲しい。
その為ならば俺はいつまででも…どんな時も、何も揺るがさぬまま待っていられる」








…その後。

何かを言いかけては微妙に目線を逸らしながら口篭る、という恐ろしく稀有な様子の忍の口から、


「……ところで、……頼みがあるのだが、良いだろうか」


と——漸くにして“頼みごと”が出てくるのは、この少し後の事。