そんな噂が聞こえてきたのは、つい 先日のことだ。

パレスといえば、君主の居住する御殿。
防衛施設としては、城よりも数段劣る場所のはずだが、
一揆勢の城内突入を許した新王が、城を離れパレスへ退避しているとも限らない。

ちょうど、グリーンパレスへの進攻を計画している小隊があるとのことで、その同行に申し込むことにした。

パレスへは、特別な転移陣を用いなければ移動することができないとの話。
だが、転移陣の場所とその起動方法さえ判っていれば、この先 いつでも進攻が可能になるのだから…
早めに知っておくのも悪くない と思ったのだ。



………………



集合場所には、先に募集主の騎士ともう1人の同行者が待っていた。
私を合わせると3名。後1名、同行者が居るはずなのだが…



何気に、辺りを見回す…と。

見慣れた姿が、そこにあった。


しなやかな黒の毛皮に 穏やかな金色の瞳。
柔らかそうなケープを身に纏い、尻尾の先に可愛らしい鈴を飾っている……猫。


　ロク君。


一揆に参加して 間もない頃に知り合った、黒猫の少年。
雑踏の中で 初めて彼を見かけたとき、不意に気になって 声をかけた。

彼のような幼い少年まで一揆に？ と疑問に思ったのもあったのだが、
毛の色と瞳の色が 私と同じ黒と金の組み合わせだったことに、どことなく親近感を覚えたのだ。


話しかけてみて、彼は 言葉を喋ることができないのだと知った。

いきなり筆談を持ちかけられたことには 少々驚きもしたが、会話には特に支障もなく、
彼の言葉の端々から感じる 年頃の少年らしい快活さと朗らかさに、私は時に 元気づけられもしていた。


彼とはその後、何度か行動を共にする機会があり、今ではもう すっかり親しい間柄になっている。




ただ、彼にはひとつ、気掛りなことがあった。


彼は…　一揆に参加する以前の記憶が無いそうなのだ。
名前すら --- ロク＝リクというその名すら --- 本当のものではないかもしれない と、彼は語っていた。

同時に、記憶が無いことを 別段苦にはしていない とも、話してはいたのだけれど…


そのことは… 彼の過去に何があったのかは… 他人事ながら 少し、心に掛かっている。




ともあれ、パレス進攻の最後の同行者は、彼だったようだ。


思わず、口元が緩む。


一揆に参加したばかりの頃と比べれば だいぶ慣れてきたとはいえ、
見ず知らずの相手と小隊を組むのは、やはりまだ 落ち着かないものがある。
ましてや今回は、未知の場所に進攻することも相俟って、不安も相応に大きかった。

けれど、馴染みの顔が近くに居てくれれば、いくぶんか 心は休まる。
彼が小隊の一員だというのは、私にとって ありがたいものだった。


どうやら彼の方も、こちらに気が付いたようだ。
一緒に進軍するのは久方ぶりね。 と、挨拶がてらに声をかけようとした矢先…

………。　逃げられた。


彼は、私の姿を見るや否や、あらぬ方向へと一目散に 逃げ出したのだ。

思わず呼び止めたが、振り返る気配はない。
反射的に、後を追って走り出す。


　何か、あったのだろうか？


漠然と、不安が湧き上がる。


　出会うなり逃げられるなんて… 何か、嫌われるようなことをしてしまっていたのだろうか？

けれども、一瞬 垣間見えたその顔は…　どこか辛そうだった。
怒りや嫌悪の表情ではなかった。ふざけて からかっているようにも、とても思えなかった。


　放っておいてはいけない気がして……

　このままにしてはおけない気がして……


走る。



………………



脇目も振らずに、彼は全力で駆けてゆく。
見失わないよう、後ろ姿を懸命に追いかける。

どれほどか走り、ようやく彼の足が止まった。
息を切らせながら、その名を呼ぶ。

私の声は無事に届いたようで、彼は驚いた様子でこちらへと振り向いた。
無我夢中で走っていたのだろうか？　私が追い掛けていた事には 気が付いていなかったようだ。

振り向いた彼の表情を見て、どきりとする。

普段の陽気な彼からは想像が付かないほど、その顔が強張っていたのだ。
その緊張が、こちらにも伝わってくるほどに。

張り詰めた空気を誤魔化すように、つとめて明るく話しかけた。


本当に…　一体、何があったのだろう？
彼の身に、彼の心に、何が起こったというのだろう？

そんな疑念が頭を過ぎった……途端。



　　ビュンッ！！



一筋の風が 頬を掠めた。

それは、彼の放った魔力の矢。
そして、彼が掲げたボードに書き殴られていた文字は、にわかには信じがたいものだった。

目を、疑った。
彼が 矢を射掛けてきたのだ。それも、冗談混じりのものではない、本気の攻撃だ。


鬼気迫る形相でこちらを睨みつけている。彼は、真剣だ。




　何故？！　どうして？？！




やにわに敵意を向けられ、身が竦む。
尋常でない雰囲気に怖気づき、じりりと後ずさる。

　……いや、おかしい。　　　彼が、理由も無くそんなことをするはずがない！！

動転していた心を鎮め、改めて彼の態度を、顔色を、観察する。

よくよく見てみれば…　その身体は小刻みに震え、耳は後ろに伏せられている。
彼は……　怒っている訳じゃない…？



これは…　この感情は…








　『 怯え 』 だ。




どういうことだろう？　いったい、彼は何に怯えているというのだろうか…？　確かめなければ。理由を。
そこまでして、いったい何を隠しているのか。 何をそんなに堪えているのか。

先ほどの言葉を、繰り返す。

無闇に感情を昂ぶらせないよう、心を揺すぶり掻き乱さないようにと、
彼に向かって 慎重に一歩を踏み出す。


だが……。

ボードに浮かび上がる 乱れた文字が目に入った、刹那。

腹に 凄まじい衝撃が走る。大槌で殴打されたような、強烈な一撃。
たまらず、崩れ落ちるようにその場へうずくまる。

はじめは、なにが起こったのかさえ わからなかった。
息を吸い込むこともままならず、喘ぐ。激しい痛みで呼吸も困難となり 頭がくらくらする。


彼が放った魔力の矢の直撃を受けたのだ と理解できたのは、束の間 経ってからだった。



まさか…　まさか、本当に攻撃してくるなんて……



朦朧とする意識をかろうじて引き留め、傷口に手を当てた。

軽く まさぐる。鋭い痛みに 顔が歪む。
千切れた毛が指に絡みつき、じわり液体が伝わり落ちる感触。
掌で堰き止めきれずにこぼれた雫が、ぽたり、ぽたりと地面に赤い染みを作ってゆく。


ふと、また攻撃が来るやもと気付き、慌てて 彼の次の動きに注意を向ける。
見ると、彼はこちらの様子を伺っていて……



　……？　うろたえている？



げほっ… と咳き込み、詰まっていた空気を吐き出す。ようやく、息をつけるようにはなった。
だんだんと霧の晴れてきた頭で、今の状況の整理を試みる。


どうやら、次の攻撃は無さそうだ。彼はその場に立ったまま呆然としている。
驚愕と焦燥と悲嘆が入り混じった表情を浮かべて、まるで凍り付いているかのようだ。

腹を抱え込むように腕を添え、傷口を押さえ込む。
矢を受けた部分の皮膚は 幅広く裂けてはいたが、服と被毛の所為で深い所までは達しなかったようだ。
じきに、血も止まるだろう。

しかし、痛みが引く様子は全くなかった。
裂傷と打撲の合わさった傷口は、じくじくと疼いて熱を帯びている。
少し身体を動かしただけでも、ひどく痛む。


再び、彼を見上げる。

変わらず、青ざめた様子で立ち尽くしている。私を傷つけたことに 動揺しているのだろうか？
…とすれば、先程からの行動は やはり、本意ではなかったのだ。


　ならば…　このまま放っておく訳にはいかない。


よろよろと立ち上がり、痛みを堪えて無理矢理に笑い顔を作る。
沈痛な面持ちでこちらを見つめる彼に、ゆっくりと歩み寄り、呼びかける。

息も絶え絶えながら、笑顔を向ける。
痛みを堪えている所為で、口の中は乾ききり、掌には油汗が滲む。

苦痛で引き攣りながらも、精一杯 彼に微笑みかける。

不幸にしたくない…？　一体どういうことだろう？
何度目かの同じ問いかけを、もう一度 投げかける。

彼の瞳が、こちらを見上げる。
涙を浮かべながらボードに綴られてゆく文字。


彼はもう、ボードに文字を書いてはいない。
彼の溢れる感情が 魔力の奔流となって、ボードに文字を浮かび上がらせている。

これはきっと、彼の心の叫び。彼が心の奥に仕舞っていた悩み。
誰にも知らせず、秘めようとしていた想いなのだろう。





　……………





　……………





　……………

その告白は、衝撃的なものだった。




　　ロク君が、人間と悪魔の混ざりもの…？




ううん。そのことにも、もちろん驚いたけれど。




　　そんなことじゃない。私にとっては。




彼は…　彼が思い悩んでいた理由は…

















　　だから、逃げた。




自分の所為で、誰かを不幸にしたくなかったから。




　　だから、逃げた。私から。




誰かを不幸せにするくらいなら、自分の存在など なくなってしまえと思ったから…？




　　それは…









　　そう。それは…









　　ロク君、あなたは…
　








　　私はいったい…









　　私はいったい、あなたに なにをしてあげられるというのだろう…















　……………





　……………





　……………

すぐ そばから、聴こえた声。


いつのまにか、私は彼を抱きしめていた。
彼の前で両膝を付いて背の高さを合わせ、両手でしっかりとその身体を抱き寄せていた。


頬が…濡れている？　私は……泣いている？　私も……泣いている？


彼が、私の肩に顔をうずめている。にゃあにゃあと、鳴き声を上げて、泣いている。


ああ。私が抱きしめた所為で、ボードに文字を書けなかったのか…



いや、ううん。きっと、そうじゃない。



寄りかかる彼の重みが伝わる。支える力をぐっと身体に込める。
先程の傷は ずきりと痛んだが、痛みは感じているが、なぜだか気にもならない。


彼の背中に回していた手を上に寄せて、肩にある彼の頭を 背中越しから掌で包みこむ。
引き寄せた彼の身体から、心地よい温もりを感じる。



ふたたび、涙がこぼれる。



彼は声をあげ、泣き続けている。親を呼ぶ子猫のように。頼るものを探し、縋るように。
私は佇み、静かに涙を流す。子を失った親猫のように。無くしたものを求め、祈るように。





彼の憂いは私の後悔。 彼の優しさは私の疵。





私は彼に、なにもしてあげられは しないのだろう。


私は彼に、届けられる言葉を持ってはいないのだから。





けれども……





けれども……








いまは、貴方の哀しみにただ、溺れさせて……

（キツネさんの言葉に耳を傾けてから）

（相手も既に承知のはずの同行者の気性を喩えに挙げつつ分析する少女。始終同行者があれこれ面倒がって破壊してるのだろう。不足しているものに関していえば表情の読み難い顔に複雑な色が滲む）

（シェリィへの感想については）

（普段の言動行動に慣れすぎているのか、その辺りが全く分からない様子の少女は小さく首をかしげている。
話題がお茶談になると、さして気にした様子もなくそちらを真顔で検討しはじめる）

ちらりとセリィおねえさんにめをむけましたが、あわててぶきをかまえました。

パンパンとふくのほこりをたたいてはらいました。