山間の穏やかな地に文が舞い込んだのは、初夏のある日だった。

この土地に郵便局は一つしか無い。村といっても、外れにぽつんと建っているだけで、御蔭で郵便局の機能もほとんどあるか無しかだ。
村と村の間を行き来するだけあって多忙ではある。けれど、仕事の量は御世辞にも多いのではない。

配達員はこの日、幾つかの文を佐藤家に届けた。佐藤は古くから薬売りをしており、それが長じて、小さな薬局を代代営んでいるのだ。

「あら、これは」

佐藤家に嫁いでいる美代は、色白の四十女だった。恰幅の良い体にふんわりとしたパーマを当てた髪形で、どこか親しみ易さを備えた女である。
小さな目をパッと見開いてにっこり笑う。

文は佐藤家で宛てられてはいるが、「佐藤様方文箭様」とある。
送り主の名も不思議な事に「文箭」だった。

兄弟か？　親子か？

いいや違う。その事を美代は知っていた。薬局から徒歩3分の場所にある旅館より、更に歩く事10〜15分。
つまり佐藤家から文箭家には20分かかるのだが……その家には、今住んでいる者は一人しか居ないのである。
文箭という者が自らに宛てているのは妙な事だが、それがどういう事を意味するか。

山を背景に建っている、古い日本家屋は手入れが行き届いていた。
囲いは竹を組んで作ったもののようだが、何度も補修されたアトがあった。相当に古い事が分かる。
どうも一度か二度は取り替えたらしい。土壁の建物と竹の劣化を較べてみればどことなくちぐはぐな空気がした。

枝垂れ桜はすっかり葉桜に変わって、今は零れる日に若葉が燦然と輝いて眩しい。
美代は囲いの外から内へ呼びかける。

「藤原さん、藤原さん！」

文箭宛の手紙を振り回しながら、美代は人を呼んだ。
何度か呼んだ後、背の高い男がのっそりと現れた。

「何じゃ、どねぇしたんじゃ、おみよさん」

男は年の頃30半ば程と見える。筋骨逞しく、黒々とした短髪と無精ヒゲがもさりとした印象を与える。山から熊が出てきたのかと思わせる男だった。

「藤原さん、文箭さんじゃ」

藤原と呼ばれた男は、竹垣の外から美代が背を伸ばして文箭宛の手紙を渡すのを、軽々受け取った。美代は小柄で竹垣から背が出ないのだが、藤原は頭が出るくらいの背をしている。
わざわざそのような事をせずとも、入り口はすぐそこにあるのだから、気軽に入ってくれば良いのだ。

だが、美代はそうした事はなぜかしなかった。美代だけでなく、誰もがそうだった。藤原はその理由を知っていた。
ここの家主は、村と親しい顔をしながら馴染まずに、独りで過ごしているからだ。昔からそのように慣わされているから。

「これ、いつ届いたん？」
「さっき」
「ははあ」

日に透かすように文を眺めると、藤原は竹垣越しに愛想良く挨拶をした。美代も丸顔をにこにこと笑わせて、存外呆気無く「じゃ」と手を振って立ち去った。

（美代さんも大変じゃ）

佐藤の薬局は薬局でありながら、大分昔から文箭家へのメッセンジャーを果たしていると知っていた。
その経緯は知らないが、“本来の文箭”が存命中にはそうした役割は無かったという。
“今の文箭”が“文箭”を正式に名乗るようになってから。独りになってしまってから。佐藤家は役割を担うようになったと聞いた。

息を吐いて、歩きながら封筒を開ける。

丁度良かったと藤原は思った。文箭が藤原の手引きで旅に出てから、年単位で時が経過している。そろそろ知己の喋り相手が欲しかったのだ。

それに、留守を預かっていた間に、興味深いものを見つけた。一枚の新聞スクラップだった。
大正年間の東京新聞である。山陽にありながら東京新聞があるのは、全国を歩いて旅している文箭の事だ、別に不思議は無い。
しかしそれがスクラップとして保存されているのは不思議だった。
藤原は文箭が何かをスクラップにしているところは見た事が無かった。新聞なら新聞をそのまま保存しているような男だ。

スクラップには見覚えのある苗字もあった。東京の新聞のくせに、岡山でよく見る苗字。
『妹尾家忽然と姿を消す』というものだった。何となく、文箭が一枚噛んでいるような気がしたのだ。これについて、帰って来たら話をしてみたいと、思っていたのだ。


文はやはり、文箭が自らの帰還を藤原に報せるものだった。
それにしても消印が無い。一体、どこから出したのか。
藤原は細かい事は気にしない男だ。だから、この文がどこから出されたかなど、どうでも良い。

肝心なのは、文箭が帰って来るだろう、そうした期待だ。