1.トロイア勢の凱旋

冥界のトロイアの王宮に夕日が差し込み、トロイアの町並みは橙色に染まっていた。城門が重々しく開き、武装したトロイアの将兵達が帰還する。将兵達の表情は晴れ晴れとして自信に満ちており、その行軍は凱旋のそれであった。トロイアの市民達は将兵達を万来の拍手で迎え、兵士は一人また一人と各々の家庭へと戻っていく。トロイアの将兵にはトロイアの英霊に与する謎のシスターも随行しており、勝利したトロイア勢のこと誇らしく眺めていた。

老王プリアモスと王妃ヘカベは王宮の入り口にて王子達を出迎え、戦から帰って来た息子達を労った。長男のヘクトールの霊に、次男のパリスの霊、三男のデーイボポスの霊が、下馬して王宮へと戻り、甲冑を脱いで召使達に渡しながら、平家の怨霊達との合戦のあらましについて語り始めた。老王は息子達の表情や振る舞いから戦果には不足はないものと理解した。

老王と老王妃はおお、それはよかった、と顔を綻ばせる。攻め手の船を焼く事は、トロイア戦争のおりにトロイア勢がアカイア勢に対して果たせなかった宿願である。かつての遺恨を晴らす事は、死者の戦争（怨霊合戦）における勝利条件でもある。同時に、老王と老王妃は顔を見合わせる。戦勝はめでたいが、困った事になったな、と。

老王の態度に違和感を感じたシスターは何事かございましたか？と尋ねると、ちょうどよいと老王はシスターの腕をひっぱり、王宮の一室へと連れて行った。一室には寝台があり、老王は寝台を指差す。

そこには平家の怨霊の主君である安徳帝の霊とエンブリオのアニマが仲良く並んですやすやと寝息をたてて眠っていた。その脇には平家の怨霊の若き貴公子が主君を守るかのごとく控えていた。

老王と老王妃は事のあらましをシスターに説明した。彼らこそメルンテーゼの王城で出会った童の霊であり、この冥界のトロイアにやってきた安徳帝の霊とアニマは老王と共にトロイアを散策し、アテナ神殿を見学した後にはアテナの来訪を受け、神々の示顕の世界にてトロイアの終末を垣間みたのだという。その後、老王らは彼らを王宮に招待して食事を共にし、童の霊は散策に疲れたのか眠ってしまったというのだ。

シスターは息を飲み、清宗に頷いて退室する。魔力や因果の連なりといった霊的な力場を感知するシスターの浄眼には、霊界のトロイアが非常に危険な状況にあることが理解できたからである。アニマが歩いて来た道は魔術的な経路として平家の海に繋がっており、仮に清宗の霊が魔術的な転送手段を行使していれば、平家の精兵をトロイアの城内に呼び出すことが可能な状況であった。トロイア勢が平家側と合戦をしている間に、城塞内に平家の別働隊を召還されていたとするならば、完全な奇襲が成立して霊界のトロイアは（再度）陥落していたことだろう。

シスターも、ええそうですねと、老王に頷く。安徳帝は現代にも信仰を有する神々に連なる一柱であり、シスターはエンブリオにもただならぬ神気を感じていた。平家側と和睦を結ぶにしろ、そうでないにしろ、事は慎重に事を運ばねばトロイア側もただではすまないだろう。シスターは顎を指でさすりつつ対処法を思案する。シスターが思案していると、王城の影からローブを纏った人影が現れ、シスターに一本の巻物を差し出した。シスターは無言で巻物の紐をしゃらと解いて内容に目を通した。

シスターは息を飲む。シスターは己の使い魔や王城の情報機関を通じてメルンテーゼの情勢を探っていた。影の伝令には情勢に変あれば速やかにこれを伝えよと命じていたのである。

シスターはつかつかと寝室へと入り直す。そして、清宗の霊に対して、安徳帝の霊を船にて送りますゆえ、平家側の出迎えの船を出してほしい旨、シュガーレスに伝えるよう述べた。

清宗が懐から通信用の呪符を取り出して起動するまでの間に、シスターは振り返って強い意志を含んだ口調で老翁に告げる。平家の主上をお返しし、平家と和議を結びましょう、と。

シスターは伝令を呼び、事の次第をヘクトールに伝えるよう命じた。何事かと王宮内は騒然とし始め、ヘクトールの霊を筆頭にトロイアの皇子たちが部屋へ集まってくる。清宗の霊が額に貼り付けた呪符の文様が怪しく光り輝き、シスターとトロイアの霊達が見守る中、清宗の霊は言葉を紡ぎ始める。その様を見てトロイアの将校達は思う。それはまるで神官による神託のようだな、と。

2. トロイアと平家の和睦の段

安徳帝の霊が目を覚ますと、そこはトロイの王宮内の寝台の上ではなく、ギシギシと揺れる暗い部屋の中であった。揺れ方は波のごとくであり、安徳帝の霊はかつて源氏に追われて瀬戸内海を漂った頃に戻ったのかと戸惑うも、しかし、船内の調度品はトロイの王城内と同様である。安徳帝の霊が清宗の霊に問い糺すと、己はトロイアのガレー船に乗っており、これから、海上でシュガーと落ち合うのだという。

安徳帝は船室を出て甲板に出る。時刻は夜明け前、天気は晴天で船の帆は風をわたわたと受けて快調に大海原を進んでいる。甲板にはトロイア側に与するシスターもいて、恭しい態度で安徳帝の霊に挨拶し、清宗と同様の説明をしてくれた。船にはヘクトールの霊も護衛のために共に乗り込んでいた。安徳帝の霊がヘクトールを下からほほぉと見上げると、ヘクトールの霊は何と応じてよいものやら分からなかったのか、うぅむと唸ったまま動かない。

船首にはアニマが立ち、ひたすらに広がる海を眺めている。安徳帝の霊がちょこちょこ甲板を歩いて船首まで向かい、「何か見えるか？」とアニマに尋ねると、アニマは安徳帝を振り返って何も応えない。アニマの髪は走る馬の尻尾のごとくはためき、その瞳は渦を描いていた。安徳帝は苦笑してアニマが見つめていた視線の先を伺うと、平家の唐船がゆっくりとこちらに近づいていた。

トロイア側のガレー船と平家の唐舟は巧みな操船により、互いの船首がほとんど交わる程度に接近した。トロイア側にはヘクトール率いる精兵が、平家側には知盛率いる手だれの武者がそれぞれ控えてはいたが、まずはシスターとシュガーが船首に出向いて互いに黙礼を交わした。

シスターはシュガーに怨霊合戦（死者の戦争）における和睦の提案を行い、シュガーもこれに了承した。シュガーとしても、平家の怨霊の軍船をトロイア勢に焼かれてしまっており、トロイア側に勝利する望みは断たれていたのだ。

シスターは指でスターを描き、シュガーは印を組み、冥府の言葉で怨霊合戦/死者の戦争のプロトコルの解除についての祝詞/宣言を述べ合う。冥界の空には怨霊合戦（死者の戦闘）の状態を示すハデス・サインが浮かび上がり、そして、サインはオーロラのごとく空に溶け出し、弾け飛んで流れ星となり、暁の水平線の彼方へと消えて行った。

安徳帝の霊は手摺りの上に立ち、術式を終えて息を吐くシュガーに声をかけた。

安徳帝の霊は頷く。

シュガーは安堵の色を浮かべて安徳帝の霊に呟く。それが何よりにございます、と。シュガーと安徳帝の霊は共に流れゆくハデスの流れ星を見上げ、何も語らず嘆息していたのだった。

アニマと安徳帝の霊はシュガーに抱かれてトロイアのガレー船から平家の唐舟に乗り移り、清宗の霊も唐舟に飛び乗ると、アニマと安徳帝の霊は振り返ってトロイア側に手を振る。

平家側からも知盛と二位尼が、トロイア側にはヘクトールの霊が甲板に姿を現し、相争いあっていた双方の顔を眺めやる。双方の船はゆっくりと潮と風に流されて距離を開けて行き、冥界の太陽が水平線の彼方から姿を現すと、まばゆい光が水面を照らし、その光の中に双方の船もまた消えて行った。

まばゆい光の中で、シュガーとシスターの耳元に冥府からの声が届く。声はまるで朝日に舞う小鳥の声のごとく軽やかなものであった。

２人の素っ気ない声はまばゆい光に飲み込まれ（無意味に）消えて行くのでした。

シュガーは怨霊と会話をしているようです